2000年01月03日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 2」
95/10/12 11:51
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その2
第二章 「父と少年の釣り」
鶴見川でのハゼ釣り以降、釣りと云うものが好きになり、小学校から中学校にかけては、従兄弟ちゃんと二人で鶴見の三つ池、二つ池、鶴見川の上流で釣りを楽しんだが、余り釣れたことはなかった。三つ池でダボハゼが、二つ池でクチボソが、釣れた程度であった。但、近くのどぶ川で、糸みみずや縞みみずを取ったり、ダボハゼを釣ってきて、これを焼いて猫に食べさせたりしたり、釣りの代わりにざりがにを捕ってみたり、池や川の斜面で寝そべってみたり、釣り以外にも楽しいことが多くあった。
鶴見川の上流も、当時はまだまだきれいで、川の近くは田んぼばかりで、野の草も、景色も、とても清々しいものであった。川では、ミミズをエサに棒浮きを使って、流し釣りをしたがほとんどゼロと云って良い程、釣果はなかった。川の流れの上を浮きが流れて行く情景が、今でも克明に、瞼の裏に残っている。竿は3本繋ぎの竹竿を、確か三十円か五十円かで、従兄弟ちゃんと二人で、近くの駄菓子屋さんみたいな所で買い込み、大事な宝物として持っていた。正月のお年玉が百円位の時代であったから、当時の子供としては高い買い物であったに違いない。
父は、釣り道具に関しては、非常な凝り性で、戦前に東作などに注文して作らせた高級な竹竿を沢山持っていて、大事に保管してあった。幸い、空襲で焼ける事もなく、今では父の形見として、僕が持っている。主として渓流竿が多い。
父には、良く酒匂川(小田原)にヤマベ釣りに連れて行ってもらった。田んぼには、蓮華の花がいっぱいで、菜の花も咲き乱れている頃、連れて行ってもらったものである。玉浮きを付けた流し釣りで、エサはサシ。釣りの行く前の夜、テグスを湿らせて、引っ張っては強さを確かめ、又、引っ張っては強さを確かめ、何本かつないで、道糸をつくっていた。当時、まだナイロン糸は、出回っていなかったのであろうか。小さなハサミで、切ってはつなぎ、切ってはつなぎしているのを、側でじ-っとみていたものである。糸の結び方、釣り針への結び方、浮きの付け方等、教えてもらったが、子供の僕にとってはとても難しく、なかなか覚えきれなかった。でも、父と二人で黙々と仕掛けを作るのは実に楽しかった。
この時、父は、僕に釣り竿を、僕専用に、「だいじに使うのだよ」と渓流竿一本(二間半の竹竿)と、海小物用の、竿一本(一間半の竹竿)の二本くれた。うれしかったな! いまでも、この渓流竿は大切に保管してある。海用の竿は、長いこと使っている内に先端が折れてしまったので、そのままどこかへいってしまった。釣った魚は蓬の葉っぱといっしょに、魚籠に入れて置くと長持ちする、と教えてくれたのも父。笹の葉と一緒でも良い。釣りとは余り関係ないが、水中めがねは蓬の葉っぱで拭いておくと曇らない、擦りむいたり、ちょっとした切り傷をした場合、蓬の葉の汁を付けると良い。とか言うことを色々教えてもらった。父は口数は、そう多い方では無く、ときたま、ぼそっと物を云うタイプの人間であったと思う。
僕は父が四十三才の時、第二次大戦の末期のどさくさにまぎれて出来た子供で、年行ってから生まれた子供は、父にとっては、可愛い子供であったものであろう。釣りの仕掛け以外に、縄の縒り方、独楽への紐の巻き方、鋸、カンナの使い方、ナイフの研ぎ方、等々色々教えてもらった。今も、割合と器用なのは、この辺から来ているのかも知れない。
この当時、父は中小企業をあいてに、経理士の仕事をしており、余り稼ぎは良くなかった様に思われ、母の尻の下に敷かれていたようで、自分が、釣りに行きたくなると、「正蔵、今度の休みは、父さんと一緒に、釣りに行きたいと母さんに言え」と、僕を出汁にして、釣りに出掛けたものである。
そんなある日、(昭和三十一年頃の春)酒匂川の支流に、蓮華の花畑、菜の花畑の小道をぬって釣りに行ったことがあった。父は、その小さな川で、すぐにハヤを一匹釣り、更に、ふたつみっつは釣れていた。その後、その場所で、アタリも無くなったので、少し離れた所へ移動し、釣りを始めたところ、すぐにアタリがあり、突然、僕の浮きが消し込まれ、合わせてみると、今までに経験したことの無い、強い当たり! 竿は弓なりになり、下流にどんどん引き込まれ、「父さん、大変だ!大変だ!」と右往左往するうち、とうとう、竿と糸との結び目で、糸を切られてしまった。悔しい悔しかった。
父に、すぐ仕掛けを、付け替えてもらい、同じ所にもう一度振込み、そして流す。その途端、またまた、同じ大きな当たりに引き込まれる。「父さん、まただ!まただ!」大騒ぎ。これも、さっきと同じく、竿と糸との結び目で糸を切られてしまった。
・・・「父さんの糸の結び方が悪いから、切られてしまったではないか!」と父に向かって悪態をついた。父は一言「ゴメン」といったきりであった。魚は、何かわからなったが、多分ウグイの大きな奴か何かだと思う。父は「きっと鯉だ」と云っていたが。
夏が過ぎて、秋の風が吹き始める頃になると、父と一緒に、良くハゼ釣りに出掛けた。家は東京都品川区大井山中町にあり、大井海岸、大森海岸、平和島には近く、自転車で十分か十五分ぐらいで行くことができた。又、羽田(多摩川の下流、六郷)にも、そんなに、時間がかからずに、行けた。平和島の少し沖に中ノ島という、小さな島があった。この頃、この島はハゼ釣りでは有名な釣り場で、平和島から渡し船が出ており、良く、釣りに、でかけたものである。中学の時、此処で釣り大会が、行われたりして、こういう行事に、父と参加したりした。ここで、ハゼは、潮の動いている時に、良く釣れ、潮が止まるとアタリも止まる、というようなことを教えてもらった。竿は、父から貰った、海用の一間半の竹竿に、アルミニウム製のリ-ルを取り付けて使用した。(確か、オリンピックリ-ルだったと思う)ハゼはかなり釣れた。これも、母がテンプラにして、家族で食べた。又、友達と大井競馬場の裏に、競馬場への入場料三十円払って入り、釣りをしたものである。
大森海岸にも良く行ったものであるが、当時は、まだ海もきれいで、あの有名な、浅草海苔も生産されていた。その後、開発や埋め立てで、海は汚れ放題汚れ、魚達は、何処かに、追いやられ、比較的、汚れた場所に生息する、ゴカイさえも、居なくなってしまった。 戦後の、目を見張る様な驚愕的な復興、経済力の成長、生活の便利さ、科学の発達、等々と引換えに、我々は大切はものを失ってしまった。大切なものを取り上げられてしまった様である。
家の近くには、戸越公園と言う公園があり、この公園の中に池があり、ここに近所の子供たちと連れ立って、ザリガニを釣りに行ったり、大森駅の、裏の、大森貝塚の近くに、小さな流れで、ここでも、ザリガニが釣れたものであった。ザリガニは、スルメを、幅一センチ位に、切ったものをエサにし、これを、2~3メ-トルの長さの、たこ糸の先に縛りつけ、ザリガニの居そうな所へ投げ入れて、ザリガニが、ハサミでエサを、つかむのを待つ。奴が、エサをつかんだら、そ-っと糸を引いてきて、手網で捕ってしまう。奴は欲が深いのか、神経が鈍いのか、一回掴んだら決してエサを放そうとはしない。釣りには違いないが、遊び半分の、のんびりした、時であった。
又、鹿島神社と言う神社が近くにあり、毎年秋になると、お祭りで夜店等が出て楽しかった思い出があるが、この神社の近くに、用水池があり、ここでは、クチボソなどが釣れた。この様な、用水池は当時、家の近くに、何カ所かあり、こう言う所では、クチボソとか小ブナとかが、釣れたものである。しかし、次々と家が建ち、森や林が削られ、道路が造られ、すっかり変わってしまった。
その後、中学、高校、大学を過ごし、社会に出てから二十数年、その間に、煙草の味を覚え、酒の味を知るようになり、心の中や、脳味噌の中に、蜘蛛の巣が張る様に、大人の精神が入り込み、世の中の、どろどろした、色々な出来事の実態を知り、歳を経て、色々な知識を得、その分、子供や少年の持つ純な、考えや、心が、だんだん失われて行く中でも、この時の素晴らしかった情景や父の姿は決して忘れることは無いであろう。 この頃の事を思い出すたびに心が洗われる。時よ戻れといくら叫んでも、時は帰らない! 夢の中でタイムスリップするしか無さそうである。唄の文句じゃないけど、「呼び戻すことが出来るなら、僕は、何を惜しむだろう」と言う、心境である。
中学一年の初秋(昭和33年頃)、場所は良く憶えていないが、千葉県の海へ、矢立てという、(そう言ったと思う)一種の漁に、つれて行ってもらった。矢立てというのは、満潮時に30メ-トル四方くらいの網をセットし、干潮時に取り残された魚や蟹をヤスで突いたり、タモですくったりして取ると云う漁法で当時、千葉の海では、しばしば行われていたらしい。僕はいい気になって、ヤスで魚や蟹をついていたが、その内、足元に大きな蟹を見つけ、あわてて突いたは良いが、自分の右足の親指を突いてしまった。血がどんどんでるわ、親指の爪は割れてしまうわ、かなりの怪我だった。父の所へあわてて飛んでいったが、「海の怪我は化膿することないから、大丈夫、大丈夫!」と云って、結局、赤チンを塗って、ホ-タイを、ぐるりとまいただけで、治療を済ませてしまった。今だったら、それっ、救急車などと、大騒ぎになると思うが、当時は、何処でもこんなものであった。僕自信も痛さなど忘れて、ホ-タイを巻いたままで魚取りを続けた。この時には、父に随分と甘えたものである。
矢立てで取れた、大きな蟹を具に、味噌汁が大きな鍋で作られ、鍋を囲んで大勢で食べた。あったかくて、うまかったな。父は、仕事の仲間と、一緒に酒など飲んで、赤い顔をしながらタバコを吸っていたっけ。当時、「ひかり」という、橙色のパッケ-ジに入った、タバコを吸っていた、と憶えている。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その2
第二章 「父と少年の釣り」
鶴見川でのハゼ釣り以降、釣りと云うものが好きになり、小学校から中学校にかけては、従兄弟ちゃんと二人で鶴見の三つ池、二つ池、鶴見川の上流で釣りを楽しんだが、余り釣れたことはなかった。三つ池でダボハゼが、二つ池でクチボソが、釣れた程度であった。但、近くのどぶ川で、糸みみずや縞みみずを取ったり、ダボハゼを釣ってきて、これを焼いて猫に食べさせたりしたり、釣りの代わりにざりがにを捕ってみたり、池や川の斜面で寝そべってみたり、釣り以外にも楽しいことが多くあった。
鶴見川の上流も、当時はまだまだきれいで、川の近くは田んぼばかりで、野の草も、景色も、とても清々しいものであった。川では、ミミズをエサに棒浮きを使って、流し釣りをしたがほとんどゼロと云って良い程、釣果はなかった。川の流れの上を浮きが流れて行く情景が、今でも克明に、瞼の裏に残っている。竿は3本繋ぎの竹竿を、確か三十円か五十円かで、従兄弟ちゃんと二人で、近くの駄菓子屋さんみたいな所で買い込み、大事な宝物として持っていた。正月のお年玉が百円位の時代であったから、当時の子供としては高い買い物であったに違いない。
父は、釣り道具に関しては、非常な凝り性で、戦前に東作などに注文して作らせた高級な竹竿を沢山持っていて、大事に保管してあった。幸い、空襲で焼ける事もなく、今では父の形見として、僕が持っている。主として渓流竿が多い。
父には、良く酒匂川(小田原)にヤマベ釣りに連れて行ってもらった。田んぼには、蓮華の花がいっぱいで、菜の花も咲き乱れている頃、連れて行ってもらったものである。玉浮きを付けた流し釣りで、エサはサシ。釣りの行く前の夜、テグスを湿らせて、引っ張っては強さを確かめ、又、引っ張っては強さを確かめ、何本かつないで、道糸をつくっていた。当時、まだナイロン糸は、出回っていなかったのであろうか。小さなハサミで、切ってはつなぎ、切ってはつなぎしているのを、側でじ-っとみていたものである。糸の結び方、釣り針への結び方、浮きの付け方等、教えてもらったが、子供の僕にとってはとても難しく、なかなか覚えきれなかった。でも、父と二人で黙々と仕掛けを作るのは実に楽しかった。
この時、父は、僕に釣り竿を、僕専用に、「だいじに使うのだよ」と渓流竿一本(二間半の竹竿)と、海小物用の、竿一本(一間半の竹竿)の二本くれた。うれしかったな! いまでも、この渓流竿は大切に保管してある。海用の竿は、長いこと使っている内に先端が折れてしまったので、そのままどこかへいってしまった。釣った魚は蓬の葉っぱといっしょに、魚籠に入れて置くと長持ちする、と教えてくれたのも父。笹の葉と一緒でも良い。釣りとは余り関係ないが、水中めがねは蓬の葉っぱで拭いておくと曇らない、擦りむいたり、ちょっとした切り傷をした場合、蓬の葉の汁を付けると良い。とか言うことを色々教えてもらった。父は口数は、そう多い方では無く、ときたま、ぼそっと物を云うタイプの人間であったと思う。
僕は父が四十三才の時、第二次大戦の末期のどさくさにまぎれて出来た子供で、年行ってから生まれた子供は、父にとっては、可愛い子供であったものであろう。釣りの仕掛け以外に、縄の縒り方、独楽への紐の巻き方、鋸、カンナの使い方、ナイフの研ぎ方、等々色々教えてもらった。今も、割合と器用なのは、この辺から来ているのかも知れない。
この当時、父は中小企業をあいてに、経理士の仕事をしており、余り稼ぎは良くなかった様に思われ、母の尻の下に敷かれていたようで、自分が、釣りに行きたくなると、「正蔵、今度の休みは、父さんと一緒に、釣りに行きたいと母さんに言え」と、僕を出汁にして、釣りに出掛けたものである。
そんなある日、(昭和三十一年頃の春)酒匂川の支流に、蓮華の花畑、菜の花畑の小道をぬって釣りに行ったことがあった。父は、その小さな川で、すぐにハヤを一匹釣り、更に、ふたつみっつは釣れていた。その後、その場所で、アタリも無くなったので、少し離れた所へ移動し、釣りを始めたところ、すぐにアタリがあり、突然、僕の浮きが消し込まれ、合わせてみると、今までに経験したことの無い、強い当たり! 竿は弓なりになり、下流にどんどん引き込まれ、「父さん、大変だ!大変だ!」と右往左往するうち、とうとう、竿と糸との結び目で、糸を切られてしまった。悔しい悔しかった。
父に、すぐ仕掛けを、付け替えてもらい、同じ所にもう一度振込み、そして流す。その途端、またまた、同じ大きな当たりに引き込まれる。「父さん、まただ!まただ!」大騒ぎ。これも、さっきと同じく、竿と糸との結び目で糸を切られてしまった。
・・・「父さんの糸の結び方が悪いから、切られてしまったではないか!」と父に向かって悪態をついた。父は一言「ゴメン」といったきりであった。魚は、何かわからなったが、多分ウグイの大きな奴か何かだと思う。父は「きっと鯉だ」と云っていたが。
夏が過ぎて、秋の風が吹き始める頃になると、父と一緒に、良くハゼ釣りに出掛けた。家は東京都品川区大井山中町にあり、大井海岸、大森海岸、平和島には近く、自転車で十分か十五分ぐらいで行くことができた。又、羽田(多摩川の下流、六郷)にも、そんなに、時間がかからずに、行けた。平和島の少し沖に中ノ島という、小さな島があった。この頃、この島はハゼ釣りでは有名な釣り場で、平和島から渡し船が出ており、良く、釣りに、でかけたものである。中学の時、此処で釣り大会が、行われたりして、こういう行事に、父と参加したりした。ここで、ハゼは、潮の動いている時に、良く釣れ、潮が止まるとアタリも止まる、というようなことを教えてもらった。竿は、父から貰った、海用の一間半の竹竿に、アルミニウム製のリ-ルを取り付けて使用した。(確か、オリンピックリ-ルだったと思う)ハゼはかなり釣れた。これも、母がテンプラにして、家族で食べた。又、友達と大井競馬場の裏に、競馬場への入場料三十円払って入り、釣りをしたものである。
大森海岸にも良く行ったものであるが、当時は、まだ海もきれいで、あの有名な、浅草海苔も生産されていた。その後、開発や埋め立てで、海は汚れ放題汚れ、魚達は、何処かに、追いやられ、比較的、汚れた場所に生息する、ゴカイさえも、居なくなってしまった。 戦後の、目を見張る様な驚愕的な復興、経済力の成長、生活の便利さ、科学の発達、等々と引換えに、我々は大切はものを失ってしまった。大切なものを取り上げられてしまった様である。
家の近くには、戸越公園と言う公園があり、この公園の中に池があり、ここに近所の子供たちと連れ立って、ザリガニを釣りに行ったり、大森駅の、裏の、大森貝塚の近くに、小さな流れで、ここでも、ザリガニが釣れたものであった。ザリガニは、スルメを、幅一センチ位に、切ったものをエサにし、これを、2~3メ-トルの長さの、たこ糸の先に縛りつけ、ザリガニの居そうな所へ投げ入れて、ザリガニが、ハサミでエサを、つかむのを待つ。奴が、エサをつかんだら、そ-っと糸を引いてきて、手網で捕ってしまう。奴は欲が深いのか、神経が鈍いのか、一回掴んだら決してエサを放そうとはしない。釣りには違いないが、遊び半分の、のんびりした、時であった。
又、鹿島神社と言う神社が近くにあり、毎年秋になると、お祭りで夜店等が出て楽しかった思い出があるが、この神社の近くに、用水池があり、ここでは、クチボソなどが釣れた。この様な、用水池は当時、家の近くに、何カ所かあり、こう言う所では、クチボソとか小ブナとかが、釣れたものである。しかし、次々と家が建ち、森や林が削られ、道路が造られ、すっかり変わってしまった。
その後、中学、高校、大学を過ごし、社会に出てから二十数年、その間に、煙草の味を覚え、酒の味を知るようになり、心の中や、脳味噌の中に、蜘蛛の巣が張る様に、大人の精神が入り込み、世の中の、どろどろした、色々な出来事の実態を知り、歳を経て、色々な知識を得、その分、子供や少年の持つ純な、考えや、心が、だんだん失われて行く中でも、この時の素晴らしかった情景や父の姿は決して忘れることは無いであろう。 この頃の事を思い出すたびに心が洗われる。時よ戻れといくら叫んでも、時は帰らない! 夢の中でタイムスリップするしか無さそうである。唄の文句じゃないけど、「呼び戻すことが出来るなら、僕は、何を惜しむだろう」と言う、心境である。
中学一年の初秋(昭和33年頃)、場所は良く憶えていないが、千葉県の海へ、矢立てという、(そう言ったと思う)一種の漁に、つれて行ってもらった。矢立てというのは、満潮時に30メ-トル四方くらいの網をセットし、干潮時に取り残された魚や蟹をヤスで突いたり、タモですくったりして取ると云う漁法で当時、千葉の海では、しばしば行われていたらしい。僕はいい気になって、ヤスで魚や蟹をついていたが、その内、足元に大きな蟹を見つけ、あわてて突いたは良いが、自分の右足の親指を突いてしまった。血がどんどんでるわ、親指の爪は割れてしまうわ、かなりの怪我だった。父の所へあわてて飛んでいったが、「海の怪我は化膿することないから、大丈夫、大丈夫!」と云って、結局、赤チンを塗って、ホ-タイを、ぐるりとまいただけで、治療を済ませてしまった。今だったら、それっ、救急車などと、大騒ぎになると思うが、当時は、何処でもこんなものであった。僕自信も痛さなど忘れて、ホ-タイを巻いたままで魚取りを続けた。この時には、父に随分と甘えたものである。
矢立てで取れた、大きな蟹を具に、味噌汁が大きな鍋で作られ、鍋を囲んで大勢で食べた。あったかくて、うまかったな。父は、仕事の仲間と、一緒に酒など飲んで、赤い顔をしながらタバコを吸っていたっけ。当時、「ひかり」という、橙色のパッケ-ジに入った、タバコを吸っていた、と憶えている。
〔山男魚〕
Posted by nakano3 at 20:31│Comments(0)
│「えんぴつ」より