2000年02月06日
杉浦清石 ロマン街道塩の道 6
「お梅ばぁちゃんの話」 其の五 天災
又聞きの話ですが「おらがとっっあんの友達でよー」と語ってくれた話があります。 とっっあんの仲の良い友達でボッカやっているのがいました。 その頃のボッカは必ず二人以上で歩くのがキメ(取り決め)で、荷の少ないときはおらとこのとっっあんといつも一緒です。
ボッカの楽しみといやー(云えば)何てったって祭りだあーね。 大所のハズレで峠に掛かる所に駄菓子屋がポツンとあってな。 荷かついて峠越えて行った帰りにいつも寄って茶のんで休むところさ。
ここのば様(おばあさん)の亭主出稼ぎでけえって(帰って)こねえ。 行方知れずでさ。 娘一人あって、 器量好しだでボッカ仲間で評判で寄るもん多かった。 イチさも(イチは友達の呼び名)惚れてただーな。 その娘がさ。 糸魚川の雑貨問屋へ手伝いに行って、何時の間にか店へ出るよーになった。
でも李んでーら(すももだいら)祭りの時は帰って来るということでイチさん楽しみにしていたんだーな。 誰も知らなかったがイチさー糸魚川の問屋へ荷負いに行くとき雑貨屋へチョイとよって話してたんだな、その娘と。
娘だって勤めの身で長話はできなかったろーが顔見知りのイチさーで話が合っていつか気ーゆるしてただなぁ。 そいで祭り一緒にいくことになってたらしい。
それわかったの、とっっあんと二人で荷さ負うて届けた帰りに打ち明け ただな。 帰りに茶店さ寄って娘と目くばせ何かして、暗黙の了解というのかなー。
とぶように家さ帰って握り飯つくって、とっっあんと一緒に祭りさいったさ。 とっっあんはダシに使われたんだろ。 そんでなきゃーばあさ大事な娘出すはずはねーやな。
足下明るいうちに峠こえて、そんでも来馬(クルマ地名)通ったときは暗かったそうな。 月は出ていなかったもんで真っ暗だったがローソクの灯りでミノタ橋渡るんだが板の間隔あいていて娘っこ渡るのいやがったツーこんだ。
とっっあんがローソクもって橋ゆっくり渡って、イチさ草履フトコロに入れて娘っこ負ぶって川渡ったそーな。 社(ヤシロ)に着いたらもう踊り始まってさ。 地元の世話人に祝いの金包み渡すと村の女衆が御神酒ついでくれる。 何杯のんでもかまーねぇキマリさ。
唄歌ったり、おどったり酒飲んだりで夜中までやったてーから田舎の祭り何て暢気なもんだーな。 とっっあーはけーろ(帰ろう)といったが、イチさーは酔ったとか何とか言って夜明けてから帰ると言う。
娘も夜道怖いし橋渡れないから夜明け待ってイチさと帰るって。 イチさそれほど飲んでねーのは判っているが、それはそれ気ーきかしてとっっあ一人で夜道を峠越して帰っただ。
ところが峠に差し掛かったころ、突然地響きがしてアレッ地震かなと思った瞬間、ドドドドドッカーーン………。 とおおきな音がしたそーな。 何事が起きたかわかんねーが、兎に角急いで家さ帰って寝てしもた。
夜が明けたが仕事休みだし夕べの疲れですっかり寝込んでいると表がいやに騒々しい。 どうしたかや、と思って表出て聞いて見ると山抜けだそな。
浦川の山一つ突然抜けて姫川対岸にブチ当たり下流で堰を作って上はドンドン 水が増えているという。 そんだらことと表出て姫川へ行ってみると泥水が細々と流れているだけ。
皆で様子見に行くべ、と連れだって昨日帰って来た峠越えだわ。 途中村の衆からぬけて駄菓子屋のばさまの家に寄ってみるとばさま仏壇の前に座って一生懸命拝んでこざらっしゃる。
とっっあの顔見るなり娘どしたと聞かっしやるから、昨日は遅くなって橋渡るの怖いというので李平のおばさんに頼んで泊めて貰っているハズだからこれからみてくるところだ、何だったら一緒に連れて帰るから。
「そうか是非そうしておくれ、そんなら良いけど昨日えらい音したで何事もなければよいが、ども胸騒ぎしてなんねえ。」
皆に追いついたところでハナ(先頭)のもん(者)が水で進めね、といって戻ってきた。 帰りにばあさまの所へ寄って、山抜けて水が出たので今日は橋無くて帰れねが水が引き次第帰ってくるだろと言いおいたそーな。
それから幾日かたっても水は引くどころか増え続けて下り瀬(今の奉納ブノウ橋)のあたりまで来て大きな湖(ミズウミ)になったって。 ボッカ出来ないのでみんなで下から川作って水流れるようになったのはそれから十日目。 元の姫川に戻ったのはそれから一年もしてからだとさ。
註・ これは事実で記録に寄れば明治四十四年八月八日午前一時頃、稗田山が大崩壊し浦川を埋没。 姫川東岸に激突して下流瀬戸に滞積し山を作る。行方不明 二十二人 馬一頭、牛二頭埋没とあります。
その後、釣りのついでに浦川を遡ってみましたが行けども行けども瓦礫。谷深く流れは小沢より少ない恐ろしい川でした。 上流に何とか式では日本唯一という赤い吊り橋がありましたが、ここで通行止めでした。 何の為の橋か判りませんがヒミツ基地があると言われたら納得したくなる様相です。
十日たっても娘もイチさも戻らず駄菓子屋前も通る人無く、とっっあは川造りに狩り出され心配はするものの、どうにもならなかった。 という話です。
仮橋架けて渡れるようになり、李平に行って聞いてみましたが、誰も知らない ということで、恐らく川岸で二人で寝ていて溺れたのではないかと想像するだけだったそうです。
川が渡れてボッカが通るころ、ばさまは仏壇の前に手を合わせたまま冷たくなっていました。 その後葛葉峠の下を夜通るとばさまの娘を呼ぶ声が聞こえるという噂がたって、「なんぼもらっても夜の峠越えは誰もやらね」。 ということでした。 ここでこの話はお終いです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
でも・・・と「うめ婆ちゃん」は話を続けて
実はイチさと娘は前から示し合わせていたとおり、あれから大町目指して夜道を歩き夜明けまでに「下り瀬」を過ぎて千国で山抜けを知ったそうです。 突然の出来事とは云え、とんだ道行きでした。
戻ろうとしても下り瀬まで水が来そうで危ないと聞き、そのまま大町松本と歩いて、ここで住み込みの共稼ぎをしていたということで、水が引いてから母の亡くなったたことを知り、改めて厚く弔ったそうです。
それ以後峠で娘を呼ぶ声は聞こえなくなりました。
終わり。
~清 石…≧゜ゝー<
又聞きの話ですが「おらがとっっあんの友達でよー」と語ってくれた話があります。 とっっあんの仲の良い友達でボッカやっているのがいました。 その頃のボッカは必ず二人以上で歩くのがキメ(取り決め)で、荷の少ないときはおらとこのとっっあんといつも一緒です。
ボッカの楽しみといやー(云えば)何てったって祭りだあーね。 大所のハズレで峠に掛かる所に駄菓子屋がポツンとあってな。 荷かついて峠越えて行った帰りにいつも寄って茶のんで休むところさ。
ここのば様(おばあさん)の亭主出稼ぎでけえって(帰って)こねえ。 行方知れずでさ。 娘一人あって、 器量好しだでボッカ仲間で評判で寄るもん多かった。 イチさも(イチは友達の呼び名)惚れてただーな。 その娘がさ。 糸魚川の雑貨問屋へ手伝いに行って、何時の間にか店へ出るよーになった。
でも李んでーら(すももだいら)祭りの時は帰って来るということでイチさん楽しみにしていたんだーな。 誰も知らなかったがイチさー糸魚川の問屋へ荷負いに行くとき雑貨屋へチョイとよって話してたんだな、その娘と。
娘だって勤めの身で長話はできなかったろーが顔見知りのイチさーで話が合っていつか気ーゆるしてただなぁ。 そいで祭り一緒にいくことになってたらしい。
それわかったの、とっっあんと二人で荷さ負うて届けた帰りに打ち明け ただな。 帰りに茶店さ寄って娘と目くばせ何かして、暗黙の了解というのかなー。
とぶように家さ帰って握り飯つくって、とっっあんと一緒に祭りさいったさ。 とっっあんはダシに使われたんだろ。 そんでなきゃーばあさ大事な娘出すはずはねーやな。
足下明るいうちに峠こえて、そんでも来馬(クルマ地名)通ったときは暗かったそうな。 月は出ていなかったもんで真っ暗だったがローソクの灯りでミノタ橋渡るんだが板の間隔あいていて娘っこ渡るのいやがったツーこんだ。
とっっあんがローソクもって橋ゆっくり渡って、イチさ草履フトコロに入れて娘っこ負ぶって川渡ったそーな。 社(ヤシロ)に着いたらもう踊り始まってさ。 地元の世話人に祝いの金包み渡すと村の女衆が御神酒ついでくれる。 何杯のんでもかまーねぇキマリさ。
唄歌ったり、おどったり酒飲んだりで夜中までやったてーから田舎の祭り何て暢気なもんだーな。 とっっあーはけーろ(帰ろう)といったが、イチさーは酔ったとか何とか言って夜明けてから帰ると言う。
娘も夜道怖いし橋渡れないから夜明け待ってイチさと帰るって。 イチさそれほど飲んでねーのは判っているが、それはそれ気ーきかしてとっっあ一人で夜道を峠越して帰っただ。
ところが峠に差し掛かったころ、突然地響きがしてアレッ地震かなと思った瞬間、ドドドドドッカーーン………。 とおおきな音がしたそーな。 何事が起きたかわかんねーが、兎に角急いで家さ帰って寝てしもた。
夜が明けたが仕事休みだし夕べの疲れですっかり寝込んでいると表がいやに騒々しい。 どうしたかや、と思って表出て聞いて見ると山抜けだそな。
浦川の山一つ突然抜けて姫川対岸にブチ当たり下流で堰を作って上はドンドン 水が増えているという。 そんだらことと表出て姫川へ行ってみると泥水が細々と流れているだけ。
皆で様子見に行くべ、と連れだって昨日帰って来た峠越えだわ。 途中村の衆からぬけて駄菓子屋のばさまの家に寄ってみるとばさま仏壇の前に座って一生懸命拝んでこざらっしゃる。
とっっあの顔見るなり娘どしたと聞かっしやるから、昨日は遅くなって橋渡るの怖いというので李平のおばさんに頼んで泊めて貰っているハズだからこれからみてくるところだ、何だったら一緒に連れて帰るから。
「そうか是非そうしておくれ、そんなら良いけど昨日えらい音したで何事もなければよいが、ども胸騒ぎしてなんねえ。」
皆に追いついたところでハナ(先頭)のもん(者)が水で進めね、といって戻ってきた。 帰りにばあさまの所へ寄って、山抜けて水が出たので今日は橋無くて帰れねが水が引き次第帰ってくるだろと言いおいたそーな。
それから幾日かたっても水は引くどころか増え続けて下り瀬(今の奉納ブノウ橋)のあたりまで来て大きな湖(ミズウミ)になったって。 ボッカ出来ないのでみんなで下から川作って水流れるようになったのはそれから十日目。 元の姫川に戻ったのはそれから一年もしてからだとさ。
註・ これは事実で記録に寄れば明治四十四年八月八日午前一時頃、稗田山が大崩壊し浦川を埋没。 姫川東岸に激突して下流瀬戸に滞積し山を作る。行方不明 二十二人 馬一頭、牛二頭埋没とあります。
その後、釣りのついでに浦川を遡ってみましたが行けども行けども瓦礫。谷深く流れは小沢より少ない恐ろしい川でした。 上流に何とか式では日本唯一という赤い吊り橋がありましたが、ここで通行止めでした。 何の為の橋か判りませんがヒミツ基地があると言われたら納得したくなる様相です。
十日たっても娘もイチさも戻らず駄菓子屋前も通る人無く、とっっあは川造りに狩り出され心配はするものの、どうにもならなかった。 という話です。
仮橋架けて渡れるようになり、李平に行って聞いてみましたが、誰も知らない ということで、恐らく川岸で二人で寝ていて溺れたのではないかと想像するだけだったそうです。
川が渡れてボッカが通るころ、ばさまは仏壇の前に手を合わせたまま冷たくなっていました。 その後葛葉峠の下を夜通るとばさまの娘を呼ぶ声が聞こえるという噂がたって、「なんぼもらっても夜の峠越えは誰もやらね」。 ということでした。 ここでこの話はお終いです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
でも・・・と「うめ婆ちゃん」は話を続けて
実はイチさと娘は前から示し合わせていたとおり、あれから大町目指して夜道を歩き夜明けまでに「下り瀬」を過ぎて千国で山抜けを知ったそうです。 突然の出来事とは云え、とんだ道行きでした。
戻ろうとしても下り瀬まで水が来そうで危ないと聞き、そのまま大町松本と歩いて、ここで住み込みの共稼ぎをしていたということで、水が引いてから母の亡くなったたことを知り、改めて厚く弔ったそうです。
それ以後峠で娘を呼ぶ声は聞こえなくなりました。
終わり。
~清 石…≧゜ゝー<
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10:25
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2000年02月05日
杉浦清石 ロマン街道塩の道 5
「おうめ婆さんの話」 其の四 越中さん
吹雪の日などは山から降りてくる風が強く、立ちつくして亡くなったり吹雪で道を見失い、ほうた(行方が知れない)ボッカが何人もいました。
夜道になると狼に会うこともあって、後ろに狼がついていたら知らんぷりして歩き、里に近づいたら、前を見たまま、ゆっくり歩いて「ご苦労じゃったなぁもう帰ってくれや」というと、いつの間にか狼は離れていったもんです。 襲われたという話はききません。
猿をかまって死んだ人が居るくらいなもんで、一番困るのはウルル(アブのこと)で、殺されることはないが始末が悪い虫です。
怖いといえば真名古?山というのがあって其の壁(絶壁)の下に湯が湧くので小さな集落が出来ました。 昔のことで私は知りませんがある日地面が割れる大きな音がして山が崩れ集落が無くなっていました。 そのあたりで今でも時々ニワトリの鳴き声が聞こえます。
年代が大正になりますとボッカと問屋の立場が確率します。 問屋は納品の品種や場所などを管理できましたがボッカの方は日雇い労働者と同じで問屋の指図で荷や行き先がきまります。 今の宅配便に近い物になりました。 民家からの頼まれ配達や、商人の荷物持ちなどは臨時の仕事の内で、病人が出ると背負って町まで、というのは内職のようなものです。
それまで南に向かって歩くボッカは南から来る人には道を譲らなくても良かったのですが、この頃になるとそんなことは何時しか忘れられました。 糸魚川の街道に馬車が通るようになると富山から田植えの手伝いの女衆が来たりします。 その人達を「越中さん」と呼んでいます。
静岡の茶摘みのようなタスキ掛けで、前掛けをして脚絆を巻き、手ぬぐいで頭を巻いていました。 この人達をからかう子供の唄に、
「越中衆のフンドシは 赤黒そめて 真ん中とこらに穴あけて そこから小便 ジャーカジャカ」
越中衆は越中の田植えが終わってからやってきます。 ここで田植えして善光寺参りして帰るのです。 千国を横切り親沢を渡る善光寺街道というのが今でもあります。
以上 参考書籍「千国街道」(昔、釣行の度に泊まった宿で読み、メモをしておいたのを参考にして書きました。著者他詳細忘れました)
吹雪の日などは山から降りてくる風が強く、立ちつくして亡くなったり吹雪で道を見失い、ほうた(行方が知れない)ボッカが何人もいました。
夜道になると狼に会うこともあって、後ろに狼がついていたら知らんぷりして歩き、里に近づいたら、前を見たまま、ゆっくり歩いて「ご苦労じゃったなぁもう帰ってくれや」というと、いつの間にか狼は離れていったもんです。 襲われたという話はききません。
猿をかまって死んだ人が居るくらいなもんで、一番困るのはウルル(アブのこと)で、殺されることはないが始末が悪い虫です。
怖いといえば真名古?山というのがあって其の壁(絶壁)の下に湯が湧くので小さな集落が出来ました。 昔のことで私は知りませんがある日地面が割れる大きな音がして山が崩れ集落が無くなっていました。 そのあたりで今でも時々ニワトリの鳴き声が聞こえます。
年代が大正になりますとボッカと問屋の立場が確率します。 問屋は納品の品種や場所などを管理できましたがボッカの方は日雇い労働者と同じで問屋の指図で荷や行き先がきまります。 今の宅配便に近い物になりました。 民家からの頼まれ配達や、商人の荷物持ちなどは臨時の仕事の内で、病人が出ると背負って町まで、というのは内職のようなものです。
それまで南に向かって歩くボッカは南から来る人には道を譲らなくても良かったのですが、この頃になるとそんなことは何時しか忘れられました。 糸魚川の街道に馬車が通るようになると富山から田植えの手伝いの女衆が来たりします。 その人達を「越中さん」と呼んでいます。
静岡の茶摘みのようなタスキ掛けで、前掛けをして脚絆を巻き、手ぬぐいで頭を巻いていました。 この人達をからかう子供の唄に、
「越中衆のフンドシは 赤黒そめて 真ん中とこらに穴あけて そこから小便 ジャーカジャカ」
越中衆は越中の田植えが終わってからやってきます。 ここで田植えして善光寺参りして帰るのです。 千国を横切り親沢を渡る善光寺街道というのが今でもあります。
以上 参考書籍「千国街道」(昔、釣行の度に泊まった宿で読み、メモをしておいたのを参考にして書きました。著者他詳細忘れました)
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2000年02月04日
杉浦清石 ロマン街道塩の道 4
「おうめ婆ちゃんの話」その三
うめさんの話から 清石 註 「ボッカと牛方」
ボッカというのは「歩荷」と書きカチニを音読みにしたのです。 荷を負って物を送り届ける人を言いますが千国街道では昭和三十二年まで、大糸線は全通しておりませんでしたので、部分的ではありますが昭和初期には何らかの形で、物資はボッカのお世話になっていたのです。
鉄道か松本から大町まで開通したのが大正四年。 それ以後は昭和五年に白馬の近くの神城まで延びて、やっと姫川源流に到達したのでした。
ですから此の時代葛葉峠(現在峠上蒲原川が長野・新潟の県境です)より北に棲む者は東京に行くには糸魚川まで歩き、それから馬車に乗り、北陸線名立終点から汽車に乗らなければ出られません。 ですから実際に糸魚川あたりに住む人以外は東京を見た人はほんの僅かであったようです。
ボッカが一番活躍した時代と云えば、何と言っても武田信玄と上杉謙信の義塩の事があった頃からです。 衆知のこととは思いますが武田軍と上杉軍が戦っているときに、北条と今川がこの際武田をつぶしておけば、と相(アイ)計って相模や駿河の塩の輸送を止めて しまいました。
東塩と南塩が来なくなると甲斐・信濃の民衆も困るし戦をしている武田勢は食品の保存や軍勢の塩分補給にたち所に困ります。 見かねた謙信が「我は兵を以て戦を決せん」と武田方に北塩を送ったので信州甲斐の人々はたいへん喜んだという話です。
戦いが終わってもそれ以後、義塩に感じて東・南の塩を入れずに北塩のみを入れたのです。 と此処までの話ではお互いに美談で終わってしまいますが、キッカケは違いはないのですが松本藩は戦いが終わって以来、糸魚川の塩や魚、其の他の物資を扱う糸魚川の塩商問屋との取り決めで塩手上納や運上塩などを定めたり上納金をとったりして藩の財政を潤していたからです。
民衆に渡す塩にも当然税金がかかるので、山野に働く稼ぎの少ない民衆は塩分の強い鮭や鰤を買い、頭を野菜と共に鍋に入れ、その煮汁を使って調味料にしたと云います。 今で云う魚醤です。
これ等を運搬するのがボッカです。 一貫目幾らの賃金を納入先から貰いました。 農業や山仕事は早起きをして一日労働しても金銭的には貧しいのですが ボッカは足さえ達者なら楽に日銭が稼げます。 田畑が無くてもシチナシ(能無し)でも出来たので使う先は「酒とかんきょう(博打)」が多かったようです。
牛方(ウシカタ)というのも同様で夏季は牛で運ぶ荷が多くなります。 ボッカで山道を二十貫目(約75kgr)を背負って歩くこともありましたが、荷姿によって普通は四貫目から十六貫目ということです。 十六貫目はツッカラシ(塩の事)という唄もあります。 塩は寒くならないうちに牛に運ばせるのです。
牛の背負う量はわかりませんが荷の形から二つで一駄と言いますからボッカの倍と云うところでしょう。 一人で六頭までの牛を引くことを許されました。 抜け道はあるもので子供を連れて十二頭の牛を引く牛方が居たといいます。
道の途中にミノタ橋(前述の臨時の橋・糸魚川など流れの変わる川に渡す)があります。 牛なら上手に渡りますが馬は渡れないそうです。 ハナ牛(先頭の牛)には慣れた牛を使いました。
かんきょう(バクチ)が下手で年中負ける牛方やボッカのことを「牛」といいます。 背負っても背負っても銭にならないからです。
ボッカの背負うものは塩とは限りません。 生活用品や塩蔵のワラビ・あざみ芹・蕗・イタドリは信州(松本)への貢ぎ物に使われ、乾物・雑貨・魚なども運びました。 ボッカの荷物で季節を知ると言われます。
春先にはナガシという鰯の塩物、晩春に干鱈、お盆が近ずくと昆布巻き用のニシン、秋は塩鮭と鱒、雪の降る頃になると正月用の鰤を運びました。
余談ですが、この頃は姫川には鮭や鱒が上がってきました。 発電ダムや堰堤が出来て魚が上がらなくなり、その後姫川支流にスキー場や堰堤が次々に設けられ、一雨降ると御機嫌の悪い真っ赤な流れに変わります。
堰堤から解放される最下流でも、河床の関係か雑魚も他の河川に比べて少ないのは大変残念なことです。 松本の女鳥羽川や奈良井川にも鮭が上がってきたということを聞きました。 大正十年頃までだそうです。
牛の通らなくなる小雪の舞う頃からボッカの独壇場です。 麻の上着の上に簑を着けますが、藁の簑は水分を含むと重くなるのが欠点でした。 それでこのあたりの山ブドウの皮で作った簑を着ます。 水ハケが良く重くなりません。
藁と違って黒っぽい簑は濡れると鉄サビに赤を足したような色になるので他所から来た人は、このあたりのボッカは赤ボッカと言われました。
渓流釣りをする人は草鞋が滑らなくて良い、と云いますが、道がシミ(凍る)たり雪が詰まったりすると良く滑るのです。
冬になると姫川が全体に平らに流れるときは舟も使えますが、二つ三つに別れる水量の少なくなる頃は舟が使えないので、そこへミノタ橋を掛けておくのですが、横の桟の隙間が広いので凍った草鞋は良く滑ります。
桟の端でトントンと氷や雪を良く落としてから渡らないと、川に落ちます。 荷物があるので桟へ引っかかってしまうので流されるようなことはありませんが、後の始末が大変です。
うめさんの話から 清石 註 「ボッカと牛方」
ボッカというのは「歩荷」と書きカチニを音読みにしたのです。 荷を負って物を送り届ける人を言いますが千国街道では昭和三十二年まで、大糸線は全通しておりませんでしたので、部分的ではありますが昭和初期には何らかの形で、物資はボッカのお世話になっていたのです。
鉄道か松本から大町まで開通したのが大正四年。 それ以後は昭和五年に白馬の近くの神城まで延びて、やっと姫川源流に到達したのでした。
ですから此の時代葛葉峠(現在峠上蒲原川が長野・新潟の県境です)より北に棲む者は東京に行くには糸魚川まで歩き、それから馬車に乗り、北陸線名立終点から汽車に乗らなければ出られません。 ですから実際に糸魚川あたりに住む人以外は東京を見た人はほんの僅かであったようです。
ボッカが一番活躍した時代と云えば、何と言っても武田信玄と上杉謙信の義塩の事があった頃からです。 衆知のこととは思いますが武田軍と上杉軍が戦っているときに、北条と今川がこの際武田をつぶしておけば、と相(アイ)計って相模や駿河の塩の輸送を止めて しまいました。
東塩と南塩が来なくなると甲斐・信濃の民衆も困るし戦をしている武田勢は食品の保存や軍勢の塩分補給にたち所に困ります。 見かねた謙信が「我は兵を以て戦を決せん」と武田方に北塩を送ったので信州甲斐の人々はたいへん喜んだという話です。
戦いが終わってもそれ以後、義塩に感じて東・南の塩を入れずに北塩のみを入れたのです。 と此処までの話ではお互いに美談で終わってしまいますが、キッカケは違いはないのですが松本藩は戦いが終わって以来、糸魚川の塩や魚、其の他の物資を扱う糸魚川の塩商問屋との取り決めで塩手上納や運上塩などを定めたり上納金をとったりして藩の財政を潤していたからです。
民衆に渡す塩にも当然税金がかかるので、山野に働く稼ぎの少ない民衆は塩分の強い鮭や鰤を買い、頭を野菜と共に鍋に入れ、その煮汁を使って調味料にしたと云います。 今で云う魚醤です。
これ等を運搬するのがボッカです。 一貫目幾らの賃金を納入先から貰いました。 農業や山仕事は早起きをして一日労働しても金銭的には貧しいのですが ボッカは足さえ達者なら楽に日銭が稼げます。 田畑が無くてもシチナシ(能無し)でも出来たので使う先は「酒とかんきょう(博打)」が多かったようです。
牛方(ウシカタ)というのも同様で夏季は牛で運ぶ荷が多くなります。 ボッカで山道を二十貫目(約75kgr)を背負って歩くこともありましたが、荷姿によって普通は四貫目から十六貫目ということです。 十六貫目はツッカラシ(塩の事)という唄もあります。 塩は寒くならないうちに牛に運ばせるのです。
牛の背負う量はわかりませんが荷の形から二つで一駄と言いますからボッカの倍と云うところでしょう。 一人で六頭までの牛を引くことを許されました。 抜け道はあるもので子供を連れて十二頭の牛を引く牛方が居たといいます。
道の途中にミノタ橋(前述の臨時の橋・糸魚川など流れの変わる川に渡す)があります。 牛なら上手に渡りますが馬は渡れないそうです。 ハナ牛(先頭の牛)には慣れた牛を使いました。
かんきょう(バクチ)が下手で年中負ける牛方やボッカのことを「牛」といいます。 背負っても背負っても銭にならないからです。
ボッカの背負うものは塩とは限りません。 生活用品や塩蔵のワラビ・あざみ芹・蕗・イタドリは信州(松本)への貢ぎ物に使われ、乾物・雑貨・魚なども運びました。 ボッカの荷物で季節を知ると言われます。
春先にはナガシという鰯の塩物、晩春に干鱈、お盆が近ずくと昆布巻き用のニシン、秋は塩鮭と鱒、雪の降る頃になると正月用の鰤を運びました。
余談ですが、この頃は姫川には鮭や鱒が上がってきました。 発電ダムや堰堤が出来て魚が上がらなくなり、その後姫川支流にスキー場や堰堤が次々に設けられ、一雨降ると御機嫌の悪い真っ赤な流れに変わります。
堰堤から解放される最下流でも、河床の関係か雑魚も他の河川に比べて少ないのは大変残念なことです。 松本の女鳥羽川や奈良井川にも鮭が上がってきたということを聞きました。 大正十年頃までだそうです。
牛の通らなくなる小雪の舞う頃からボッカの独壇場です。 麻の上着の上に簑を着けますが、藁の簑は水分を含むと重くなるのが欠点でした。 それでこのあたりの山ブドウの皮で作った簑を着ます。 水ハケが良く重くなりません。
藁と違って黒っぽい簑は濡れると鉄サビに赤を足したような色になるので他所から来た人は、このあたりのボッカは赤ボッカと言われました。
渓流釣りをする人は草鞋が滑らなくて良い、と云いますが、道がシミ(凍る)たり雪が詰まったりすると良く滑るのです。
冬になると姫川が全体に平らに流れるときは舟も使えますが、二つ三つに別れる水量の少なくなる頃は舟が使えないので、そこへミノタ橋を掛けておくのですが、横の桟の隙間が広いので凍った草鞋は良く滑ります。
桟の端でトントンと氷や雪を良く落としてから渡らないと、川に落ちます。 荷物があるので桟へ引っかかってしまうので流されるようなことはありませんが、後の始末が大変です。
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2000年02月03日
杉浦清石 ロマン街道塩の道 3
「おうめ婆ちゃんの話」 其の二
「少女の頃」
大網は山の中ですから田植えも越中より遅く、あちらは米どころで沢山の馬使って田をうない、田植えが終わると私の村へ五・六頭の馬を引いてきて田のある家に預けて行きます。
次に越中から引き取りにくるまで田をうなうのに馬を使わせて貰うのですが、 そのかわりその馬を大切に育てます。 越中の人は 預けている間はマグサの心配はないのでお互いに助かるのです。
春になって私たち子供が野山で遊んでいるとき、オオカイド(大街道)から何頭かの馬を曳いてくる人を見つけると、大きな声で「エッチューウマきたぞー」 と、いち早く知らせたもんです。
田圃に水が引けたのと越中馬のおかげで 今では米ばかり食うわけにはゆかないが、弁当の飯に困ることもなくなり、節約すれば売って小使いにする位の余裕ができました。
こんな所でしたから、このあたりの人の結束は固く、「ヤウチ」と云って、ご本家さんを中心に祝儀不祝儀にはお互いに助け合います。
遠くの親戚よりもずうっと便りになって、「血の道離れても、ヤウチは離れない」と言い聞かされ、その付き合いはいつまでも大切にしなければいけない、 と教えられたものでした。
雪が降って凍った田圃は子供の良い遊び場でした。 そんな所をわたって歩く のをシミワタリ(凍み渡り)と言って普段遊ぶと叱られる所で遊べます。 しかし子供の頃は何といっても春の来るのが一番待ち遠しかったのです。
雪が溶けて旅人の数がだんだん増えてくると、それに混じって「しょいあきんど」(行商人)も来ます。 雪の早く消える海辺に近い里の方では春も早く来ますが、ここはそれよりも一月も遅れて花が咲きます。
その頃になるとオオカイドを籠に天秤棒を通して、大きな声で何か言いながら 売りにくるのです。
「アメー・アメー・ヨカヨカアメー」が飴屋で「オヒナ・ヒナヒナ」がデク売り(土で作った人形・土偶)、夏も近づくと「キンギョーエ・キンギョー」の
金魚売り、他に「ドッケシャー・いらんかね」の毒消し(薬)売りやダルマ売りも来ました。
私たちに人気のあったのはデク売りで、素焼きの素朴な人形は赤・青・緑の色付けがしてあって可愛いものです。 その人気の秘密は銭が無くても髪の毛と 交換して貰えたからで、沢山あればそれだけ高い(高価)人形と換えてもらえました。
お金なら勿論買えますが、今のように髪の毛を切るということは無かったので、 紙を梳かしたときに出る屑毛を大切に袋にしまっておき、デク売りを待ったものです。
その他「ゴマメ売り」(ゴマメを含むニシンなどの干物)・「カラツ売り」(唐津・瀬戸物)等オオカイドには良く物売りが通ります。 カイド筋にある家はよいけれど山裾の家に住む子はたいへんで、いち早くその 声を聞き分けて、飛ぶように駆けながらカイドへ下ります。
滅多には行かれませんが、糸魚川の朝市に行くのも楽しみの一つで、村のカァチャンたちが日を決めて誘いあわせ、畑の野菜や僅かな米・を背負って夜中のうちに山を下ります。
これは女の仕事、というよりは少しの小使いを得て、それで欲しいものを買ってくるのでね糸魚川の魚と交換することもあります。 荷を少しでも背負えるようになると一緒に連れて行って貰え、帰りにトットコ饅頭を買ってもらいました。
トットコというのは鳥のことで、米の粉で鳥や動物を型取りしたマンジュウで 十銭も買えば良い土産になります。 よけいに売れたときは布ヌノや頭に飾るもの(櫛等)や珍しい小物を買ってきました。
衣料品も背負って売りに来たり、町へ出る人に頼んだりして買えるのですが、自分で選ぶことの出来る朝市に出ることが母にしても楽しみの一つだったのでしょう。
この頃は姫川の崖の下を通るオオカイドを特別に「セトの道」(瀬戸の道・狭い道・セバットとも云う)と呼び、こっちの方がウルル(アブ)に見舞われることが少なく、根小屋(現存・地名)まで行けば乗り合い馬車や人力車がありました。
これを利用することはあまりありませんが、この道の方が大網峠を越すよりも楽だったのです。
このあたりの村では牛の背で荷物を運んで銭を貰って生活をしている人が沢山いましたが馬方は大町の方にしか居なかったようです。 登り下りの多い山道や、沢や川に架けたミノタ橋(頑丈な唐松や杉の丸太を選んで二本川に渡し、その両端を石で止め、数枚の横板を渡した簡単な橋)を上手に渡れるのはヒズメの割れた牛で、馬は丸太を巧く渡れません。
雪が降るころになると越中からの荷を西に運ぶのに牛が使えなくなるので、人 が荷を背負って運ぶボッカ(歩荷)が頼りになります。 爺様も若いときはボッカに出たそうですが、私の父も農作業の暇なときはボッカをやりました。
ボッカはジチナシ(実無し・物事を考えない人)でも出来る、といってこのあたりの若いものの良い収入源になりました。
続く
~清 石…≧゜ゝ~<
「少女の頃」
大網は山の中ですから田植えも越中より遅く、あちらは米どころで沢山の馬使って田をうない、田植えが終わると私の村へ五・六頭の馬を引いてきて田のある家に預けて行きます。
次に越中から引き取りにくるまで田をうなうのに馬を使わせて貰うのですが、 そのかわりその馬を大切に育てます。 越中の人は 預けている間はマグサの心配はないのでお互いに助かるのです。
春になって私たち子供が野山で遊んでいるとき、オオカイド(大街道)から何頭かの馬を曳いてくる人を見つけると、大きな声で「エッチューウマきたぞー」 と、いち早く知らせたもんです。
田圃に水が引けたのと越中馬のおかげで 今では米ばかり食うわけにはゆかないが、弁当の飯に困ることもなくなり、節約すれば売って小使いにする位の余裕ができました。
こんな所でしたから、このあたりの人の結束は固く、「ヤウチ」と云って、ご本家さんを中心に祝儀不祝儀にはお互いに助け合います。
遠くの親戚よりもずうっと便りになって、「血の道離れても、ヤウチは離れない」と言い聞かされ、その付き合いはいつまでも大切にしなければいけない、 と教えられたものでした。
雪が降って凍った田圃は子供の良い遊び場でした。 そんな所をわたって歩く のをシミワタリ(凍み渡り)と言って普段遊ぶと叱られる所で遊べます。 しかし子供の頃は何といっても春の来るのが一番待ち遠しかったのです。
雪が溶けて旅人の数がだんだん増えてくると、それに混じって「しょいあきんど」(行商人)も来ます。 雪の早く消える海辺に近い里の方では春も早く来ますが、ここはそれよりも一月も遅れて花が咲きます。
その頃になるとオオカイドを籠に天秤棒を通して、大きな声で何か言いながら 売りにくるのです。
「アメー・アメー・ヨカヨカアメー」が飴屋で「オヒナ・ヒナヒナ」がデク売り(土で作った人形・土偶)、夏も近づくと「キンギョーエ・キンギョー」の
金魚売り、他に「ドッケシャー・いらんかね」の毒消し(薬)売りやダルマ売りも来ました。
私たちに人気のあったのはデク売りで、素焼きの素朴な人形は赤・青・緑の色付けがしてあって可愛いものです。 その人気の秘密は銭が無くても髪の毛と 交換して貰えたからで、沢山あればそれだけ高い(高価)人形と換えてもらえました。
お金なら勿論買えますが、今のように髪の毛を切るということは無かったので、 紙を梳かしたときに出る屑毛を大切に袋にしまっておき、デク売りを待ったものです。
その他「ゴマメ売り」(ゴマメを含むニシンなどの干物)・「カラツ売り」(唐津・瀬戸物)等オオカイドには良く物売りが通ります。 カイド筋にある家はよいけれど山裾の家に住む子はたいへんで、いち早くその 声を聞き分けて、飛ぶように駆けながらカイドへ下ります。
滅多には行かれませんが、糸魚川の朝市に行くのも楽しみの一つで、村のカァチャンたちが日を決めて誘いあわせ、畑の野菜や僅かな米・を背負って夜中のうちに山を下ります。
これは女の仕事、というよりは少しの小使いを得て、それで欲しいものを買ってくるのでね糸魚川の魚と交換することもあります。 荷を少しでも背負えるようになると一緒に連れて行って貰え、帰りにトットコ饅頭を買ってもらいました。
トットコというのは鳥のことで、米の粉で鳥や動物を型取りしたマンジュウで 十銭も買えば良い土産になります。 よけいに売れたときは布ヌノや頭に飾るもの(櫛等)や珍しい小物を買ってきました。
衣料品も背負って売りに来たり、町へ出る人に頼んだりして買えるのですが、自分で選ぶことの出来る朝市に出ることが母にしても楽しみの一つだったのでしょう。
この頃は姫川の崖の下を通るオオカイドを特別に「セトの道」(瀬戸の道・狭い道・セバットとも云う)と呼び、こっちの方がウルル(アブ)に見舞われることが少なく、根小屋(現存・地名)まで行けば乗り合い馬車や人力車がありました。
これを利用することはあまりありませんが、この道の方が大網峠を越すよりも楽だったのです。
このあたりの村では牛の背で荷物を運んで銭を貰って生活をしている人が沢山いましたが馬方は大町の方にしか居なかったようです。 登り下りの多い山道や、沢や川に架けたミノタ橋(頑丈な唐松や杉の丸太を選んで二本川に渡し、その両端を石で止め、数枚の横板を渡した簡単な橋)を上手に渡れるのはヒズメの割れた牛で、馬は丸太を巧く渡れません。
雪が降るころになると越中からの荷を西に運ぶのに牛が使えなくなるので、人 が荷を背負って運ぶボッカ(歩荷)が頼りになります。 爺様も若いときはボッカに出たそうですが、私の父も農作業の暇なときはボッカをやりました。
ボッカはジチナシ(実無し・物事を考えない人)でも出来る、といってこのあたりの若いものの良い収入源になりました。
続く
~清 石…≧゜ゝ~<
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2000年02月02日
杉浦清石 ロマン街道塩の道 2
96/08/05 12:40
お梅婆ちゃんの話 其の一
、北アルプス、白馬・蓮華の山の麓 中央地溝帯の直下を流れる川に姫川があります。 穏和な地形の安曇野と違って、ホッサマグナの影響をもろに受けたこの土地に住まう一人の老婆「うめ」さんから聞いた話です。
………………☆…………………………☆………………………☆…………………
「子供の頃」
長野県北小谷オタリ村 日本海に面する糸魚川と堺を接する大網は伝説に寄ると沼河比売ヌナカワヒメが大国主命の御子、建御名方命タケミナカタノミコト・(御諏訪様)をお産みになったところだと聞いています。 私はここで生まれ、ここで育ちました。
今でもそうですが私が子供の頃は、鬱蒼とした山に囲まれた穏やかな村で、そのうちでもこのあたりはボツカの継立問屋もあり、村の南北には茶店もあって少しは栄えていた所でした。
私の家は街道筋ではありますが、裏山を切り開いた僅かな田畑があり、野菜の他に米・稗・ソバなどを作り、家の食料を賄ったり、牛の飼料に売ったり、少しですが蚕を養ってして生活していました。
じさま(爺さま)に聞いたところでは昔、このあたりは麻の畑が多かったそうです。 ここの近くに麻所オドコロ(今の新潟県大所)という村が残っています。
ここを大網という云うのは、ぬなかわ姫がお諏訪様をお産みなさったときに不浄払いで産屋ウブヤの周りに大きな網を張ったということから云うようになったという伝説があります。
本当は麻オを績ウんだり編んだりして網を作り、糸魚川の漁師に売ったり、衣料にしたのでオアミから大網になったと言う人もあります。 山一つ向こうの大海オウミ川というのもそれから出た名前でしょう。
じさまの若い頃に南の方から「木綿」が入ってきて着物が麻から木綿に変わり、 以前ほど麻が喜ばれなくなって、麻の畑をだんだんに野菜や穀物の畑に変えました。 元が山地ですから、夏になると麻の畑や林を切って山焼きで、ナイノ(焼き畑)作り、そのあとすぐに大根やソバを蒔きます。
翌年は豆の類(大豆・小豆など)、次ぎは粟というように畑つくりに励んだそうです。 「春山」といって雪のあるうちに山の木を切り、雪を利用して滑スベ らせて降ろしておいて一年分の薪にしたり、全くの自給自足の生活だったと云います。
それでも少し余分に採れたものや繭はお金に換えて魚や米を買いました。 このうち魚は売りに来るので何とかなりましたが、お米には苦労したようです。
その日の飯や明日の弁当にも困るときがあって、鳥越峠を越えて戸土・大久保・山口と田圃のある農家を一軒ずつ訪ねて、米を売ってもらいました。
極端な話ですが、米が無ければ嫁をもらうことも出来なかったし、親戚に子供が生まれてもオビヤシナイにも行かれませんでした。
嫁をもらうには米や酒を持って行きます。 オビヤシナイというのは重箱に米を一升と味噌と麩を持ってお祝いに行くことで、祝ってもらう方ではその米の半分だけ取って、米の粉のシンコ餅の丸めたものを五つと、餅をつまんだもの三つを重箱に入れてお返しするのです。
これで米の心配をしなくて良いのなら欲さえ出さなければ悪くない生活だと、 このあたりの人は思っていたようです。
麻が売れんようになって、この機会に用水を堀り田圃を作ろうという話がありました。 掘るといっても水の欲しい人が自分から進んで暇を作り、少しずつ掘ってゆくのです。
やがて「中道用水」が出来て各戸一枚ずつの田圃を持つようになりました。
その後何年かして、この用水に水が上がらんようになってしまい、いろいろ話あって、今度は金を掛けて水量のある横川から改めて、水を引くことになりました。
村人の中には「金掛けても水は上がんじゃろ」と反対する者もあって、工事 が終わって水が引けたときには、利水の権利が貰らえん衆もありました。 その後、じさまが亡くなって父の代になっても田圃に水のなくなることはあり ませんでした。
お梅婆ちゃんの話 其の一
、北アルプス、白馬・蓮華の山の麓 中央地溝帯の直下を流れる川に姫川があります。 穏和な地形の安曇野と違って、ホッサマグナの影響をもろに受けたこの土地に住まう一人の老婆「うめ」さんから聞いた話です。
………………☆…………………………☆………………………☆…………………
「子供の頃」
長野県北小谷オタリ村 日本海に面する糸魚川と堺を接する大網は伝説に寄ると沼河比売ヌナカワヒメが大国主命の御子、建御名方命タケミナカタノミコト・(御諏訪様)をお産みになったところだと聞いています。 私はここで生まれ、ここで育ちました。
今でもそうですが私が子供の頃は、鬱蒼とした山に囲まれた穏やかな村で、そのうちでもこのあたりはボツカの継立問屋もあり、村の南北には茶店もあって少しは栄えていた所でした。
私の家は街道筋ではありますが、裏山を切り開いた僅かな田畑があり、野菜の他に米・稗・ソバなどを作り、家の食料を賄ったり、牛の飼料に売ったり、少しですが蚕を養ってして生活していました。
じさま(爺さま)に聞いたところでは昔、このあたりは麻の畑が多かったそうです。 ここの近くに麻所オドコロ(今の新潟県大所)という村が残っています。
ここを大網という云うのは、ぬなかわ姫がお諏訪様をお産みなさったときに不浄払いで産屋ウブヤの周りに大きな網を張ったということから云うようになったという伝説があります。
本当は麻オを績ウんだり編んだりして網を作り、糸魚川の漁師に売ったり、衣料にしたのでオアミから大網になったと言う人もあります。 山一つ向こうの大海オウミ川というのもそれから出た名前でしょう。
じさまの若い頃に南の方から「木綿」が入ってきて着物が麻から木綿に変わり、 以前ほど麻が喜ばれなくなって、麻の畑をだんだんに野菜や穀物の畑に変えました。 元が山地ですから、夏になると麻の畑や林を切って山焼きで、ナイノ(焼き畑)作り、そのあとすぐに大根やソバを蒔きます。
翌年は豆の類(大豆・小豆など)、次ぎは粟というように畑つくりに励んだそうです。 「春山」といって雪のあるうちに山の木を切り、雪を利用して滑スベ らせて降ろしておいて一年分の薪にしたり、全くの自給自足の生活だったと云います。
それでも少し余分に採れたものや繭はお金に換えて魚や米を買いました。 このうち魚は売りに来るので何とかなりましたが、お米には苦労したようです。
その日の飯や明日の弁当にも困るときがあって、鳥越峠を越えて戸土・大久保・山口と田圃のある農家を一軒ずつ訪ねて、米を売ってもらいました。
極端な話ですが、米が無ければ嫁をもらうことも出来なかったし、親戚に子供が生まれてもオビヤシナイにも行かれませんでした。
嫁をもらうには米や酒を持って行きます。 オビヤシナイというのは重箱に米を一升と味噌と麩を持ってお祝いに行くことで、祝ってもらう方ではその米の半分だけ取って、米の粉のシンコ餅の丸めたものを五つと、餅をつまんだもの三つを重箱に入れてお返しするのです。
これで米の心配をしなくて良いのなら欲さえ出さなければ悪くない生活だと、 このあたりの人は思っていたようです。
麻が売れんようになって、この機会に用水を堀り田圃を作ろうという話がありました。 掘るといっても水の欲しい人が自分から進んで暇を作り、少しずつ掘ってゆくのです。
やがて「中道用水」が出来て各戸一枚ずつの田圃を持つようになりました。
その後何年かして、この用水に水が上がらんようになってしまい、いろいろ話あって、今度は金を掛けて水量のある横川から改めて、水を引くことになりました。
村人の中には「金掛けても水は上がんじゃろ」と反対する者もあって、工事 が終わって水が引けたときには、利水の権利が貰らえん衆もありました。 その後、じさまが亡くなって父の代になっても田圃に水のなくなることはあり ませんでした。
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2000年02月01日
杉浦清石 ロマン街道塩の道 1
95/11/24 18:11
「塩の道はロマンの道」いというタイトルで久々にこの会議室に挙げた拙文ですが私の手違いで推敲前のものを挙げてしまったので、ひどく後悔しています。
なにもあわてることはない筈なのに、なにしろ初めてのフィクションでしたので、ファイル名の原稿を間違えたようです。 どうも気になって仕方がないので、ここに改めて挙げることをお許し下さい。 清 石
「ロマン街道塩の道」
父も母も知らない私は歴史というものを拒否してきました。 親の無い子はひねくれ者。 祖先を持たない若者の選ぶ道でした。 それがいつの間にか歴史というものを受け入れられるようになったのは、渓流釣りを初めてからです。
釣り竿一本を持って木曾街道を釣り歩き、大自然の美しさと人情の細やかさを肌で感じ、より多く自然の残された東北で渓流釣りを学びました。
再度、山の美しさでは有数の、長野県の北アルプスを通る峻険な千国(チクニ)街道をベースに渓魚を求め山道をさまよい歩くうちに、いつの間にか私の心の中には祖先の我々にに残してくれた貴重な足跡(ソクセキ)という道を発見し、歴史の存在を身をもって知って親子の繋がりをも信じるようになりました。
開闊(カイカツ)な木曽谷にも「檜一本首一つ」という過酷な現実があり、狭隘な千国街道には御諏訪様(建御名方命タケミナカタノミコト)の民を思うあまねく良政が普遍 しています。 この道を歩き、地勢を目で確かめ、其の地の人にふれ言葉を聞き、そして歴史と現実を知り、いつしか親を慕う最も自然な形の人間の心を持てるようになったのは、この二本の街道・すなわち道のおかげなのです。
これから其の道の一つ千国街道を私と一緒に皆様も歩いてみませんか。
1.「岩 戸」
此の道は木曽街道のような明るさと武家政治の匂いのする派手な道ではありません。 フォッサマグナに沿う暗く厳しい道なのです。 此の道に光を当てたのは一人の男。 建御名方命(タケミナカタノミコト)でした。
彼を知るには彼の父のことから知って頂いた方が、その数奇な運命を理解するのに必要、不可欠のものなので、ここからこの物語を出発します。
彼の父は「八千矛神(ヤチホコノカミ)」と申しますが別名の大国主命(オオクニヌシノミコト)の方をご存じかと思います。 この人は因幡の白兎にも出てくる有名な人物で、福の神として誰もが知る大国様のことです。
出身は、私には時代の前後が未解決ですが、福岡県(筑前阿曇郷)の豪族、安曇(アヅミ)氏の別れではないかと仮に解釈しています。 大体安曇族は領土に支障のない海洋を活動エリアとしていて、遠くは朝鮮まで交易があり岐阜・愛知にも同族を送り込み、繁栄した種族です。
現在人口に膾炙されている卑弥呼(ヒミコ)伝説。 この人も同族で一般的には 「天照大神」という方が理解し易いでしょう。 卑弥呼は女性であるにも拘わらず武勇が優れた方で着々とその領土を伸ばして行きましたが、実は武勇よりも大変頭の良い方で美人。
韓国の方からの東方の知識も豊富。 ということはこの民族本来は海洋民族なのでした。 彼女の為なら死も厭わない男達と優れた参謀。 これを巧みに使いこなす総司令の卑弥呼。 これが各地の平定となって歴史に残るのです。
大国主も参謀の一人で若くして人望の厚かった学者です。 平定した土地の民に其の土地に合う産物を利用して交易を教え大変利益をもたらしたので、若くして福の神と崇められたのです。
各地の珍しい植物のタネや利器を袋に詰めて側から離さなかったので、一方ではあの袋の中は宝石などの貢ぎ物が入っているのでないか、と憶測し妬むものもおりました。
卑弥呼も女性です。 何人かの男の子を産みました。 しかし女の子を産んだ記録はありません。 年を取れば美貌に憧れて付いてきた男でも知力に欠けて武力に勝る者のなかでは我が国王になろうとと企(タクラ)むものもいました。
大神は「私は太陽の神である。 この太陽が姿を消すときは私の役目の終わった時であり次ぎのものに地位を譲る」と宣言をしてしまいました。 こうしておくことによって謀反の起きるのを抑圧したのです。
何故ここまで彼女が言い切ったかというと、実は彼女は懐妊していたのでした。 賢明な女でも母としての本能で、すくなくても子供を産み落とすまでは現在の地位を保っていたかったのです。
そして間もなく運命の日が来るというとき、 智者の大国主を側に呼んで、言いました。
「間もなく日の隠れる時がくるであろう。 そのときは私の命の無くなる日でもある。 命(ミコト)よ。 我が子を守っておくれ。 もしも生まれた子が女であれば私の卑弥(ヒミ)を名乗らせて欲しい」
大国主の母と共にかねて祈りの場であった洞窟に入り戸を閉めて出てきませんでした。 ここで女の子を出産したのです。 外では皆既日食がはじまりました。 この日を大神は知っていたのです。
外では大混乱。このことを大神に知らせようとする者。 大神に再び太陽を照らして貰おうと岩戸に向かって嘆願するもの。 出て貰う為に太鼓を打ち鳴らす者。後から後から集まって大騒ぎです。
しかし大神を妬む者や地位を狙う者はこれを機会に命を狙います。 ウズメノミコトは気の狂ったようにストリップを踊りだします。 これは殺気を削ぐ策略でもありました。
怪力のタジカラオノミコトが腕力で扉を開けようとしたとき、なかから大神自身が扉を開き皆の前へ出てきて両手を広げ刺客の刃を胸に受けました。 そのときの様子は西洋神のキリストのそれと酷似しているのも不思議です。
刃(ヤイバ)を受けた後広げた両手を静かに合わせると、今まで隠れていた太陽が少しずつ光をなげて大神を照らし、やがてまばゆい光をいっぱいに輝かせ、暗黒の世界を光輝に満ちた世界に変え、並み居る者、善人も悪人も皆顔を覆い、やがて慟哭の声が広がります。
この隙きに、赤子を抱いた大国主の母が民衆の中に紛れこんだのを知る人は、大国主命ただ一人でした。
2.「翡 翠」
彼自身、未知の、北の国を目指して旅立ったのは理由があります。 母と卑弥呼の娘を、すでに平定してある領土依り北の地へ行くように言ってありました。
これも大神から言われていたことで、「遥か北方に向かえば、此の地面が東西に別れるところがある。 此処にヌナという貴重な石があり、其の石が我が子を救う」 といって首に掛けていた飾りの中から日の子の表徴とも言える数個の緑色の勾玉の一つを大国主に、一つを彼の母に渡しました。
一部の暴徒に依って起きた混乱も、他の地納めに向かっていた大神の御子が帰ってきて元の静けさを取り戻したのを見てから、大国主は出発しました。名目は北方の平定ということですが、これは大神腹心の部下を排除し、引き継ぐ者が遣りやすい陣営に立て直す、体(テイ)の良い左遷をされたのです。
船を以ていきなり遠方へ行ってしまっては怪しまれるし、同行するものに刺客が居ないとは限らない。 命(ミコト)の旅は表面上はのんびりしたものでした。 何故なら、彼は武力で征することをこのまず、智と人徳で民から信頼を受けたのです。
彼の背負う大きな袋は穀物や用途の多い植物、薬草の種、それに必要な小さい道具類が入っていました。 それは正に智・仁・勇を背負っていたことになります。
行く先々で民衆に施し、教え、助ける。 それが「白兎伝説」になったり福の神として崇められる要因になりました。 彼に疑心を抱くものもなくなり、治めた地へ残るものも居て、従者こそ少なくなりましたが、口伝えで名声は高まり、彼の来るのを歓迎するようになりました。
あるときは船であるときは徒歩で、北へ北へと日本海沿岸を進みました。 気の遠くなるような長旅です。 美しい玉の有る所を聞けば胸を踊らせて歩をすすめました。 それは色彩豊かな瑪瑙である事が多く、美しくはあるが硬度で劣り、傷つき易く光をうしないます。 あまりにも堅きに過ぎると割れてしまいます。 ヌナ(翡翠)に勝るものは見つかりませんでした。
どれも透明感のある緑いろのヌナではありませんでした。 大神の首に架けられたもののように魂を吸い取られるほどの緑でそれでいて暖かみと深みを備えたあの色の玉に会いたいのです。 そこに母も居るに違いありません。
地名も場所も現在のようにハッキリしていた訳ではありません。 隣の集落まで幾日もかかるところもあり、その集落の人に聞いても玉が有るということさへ知らない所が多いのです。 長い長い年と時間が過ぎました。
ある時、いつ果てるとも知れない絶壁の脇を航海してやっとたどり着いたのが小さな浜辺でした。 小砂利を敷き詰めたような浜辺の石は色とりどりの美しい色彩で、竜宮の入り口ではないかと見まがうほどでした。 その中に緑色の半透明の混じる白い石を発見しました。 ミコトの持つ勾玉と同じ石です。
それは今の青海川(オウミガワ)河口でした。 長い絶壁の海岸は最近まで、此のアタリ随一の「親知らず・子知らず」と言われた随一の難所でした。 ここが知られていなかったのは海に面して佇立する断崖絶壁で、南の国との行き来を阻害していたからです。
この集落の人に聞いたところによると、その石を上手に玉に磨き上げる人がこの山奥に居るということでした。 早速青海川を遡り、教えられた所へ行きました。 そこは湧き水のある山の奥で、仮住まいを造り親子二人が暮らしています。
その親子というのは彼の母と大神の娘で、母は麻を流れで晒してそれを石の上に置き丸木の槌で叩いて柔らかくしています。 その流れの下では娘が黒い石でヌナを磨いています。 磨かれている方は白地に緑が流れ込んだよう微妙な模様があり、娘の手に乳白色の液体が絶えずあふれて流れていました。
「こんにちは」 声を掛けると二人は驚いた様子もなく、作業の手を休めて会釈を返します。 まるでミコトが来るのを予知していたようでした。
山の中に長く棲むと遥か下から上がってくる足音に気付き、娘が敵意のない人と判断をしていたのです。 或いは命(ミコト)のことを母から聞いていたのかも知れません。
それより驚いたのは命(ミコト)の方です。 振り返って会釈した娘の美しいこと。 色は抜けるように白く、今磨がかれている翡翠の白。 鼻も高からず低からず、ミコトの今まで出会った南方系の浅黒い肌と違ってまるで異国の人でした。
作業衣なのでしょうが里のそれと異なり、良く晒してあります。 チラッとのぞく胸のあたりの白さは芳(カグワ)しい香りさえ漂うような素肌です。
命(ミコト)の胸の鼓動が高まり娘に聞こえるのではないかと顔に血の気がのぼります。
俗に言う一目惚れです。 もう声を掛けたところから一歩も動けまん。 身体じゅうに電流が流れ声も出ません。 先に声を掛けたのは娘の方でした。
実はこの娘、ここから糸魚川に掛けて女王様のように慕われていて、糸魚川の屋敷に帰れば、漁師は魚を、農民は穀物を、狩り人は獣(ケモノ)の肉をささげます。 これはこの親子が南の方から持ってきた衣料になる麻や農作物などをこのあたりの住民に与え指導して、僻地にもかかわらず、豊かに暮らせるようになったからです。
「何しにいらしたの」 娘はこの男が、かねてから聞いていた母の息子ということは、わかっていました。 狩りや漁の格好ではないし大きな袋を肩にしています。 澄んだ目をみれば敵意のないことも知性豊かな人であることも察せられます。
大昔の人間は今のように話せば判るのではなく、見ただけで敵意があるかどうかを判別する能力をそなえています。 歩く音で獣か人かの区別がつきますし、流れの音や風の向きや湿度で明日の晴雨を知り木のざわめきで天変地異を予測出来ます。 大自然の話し声が聞き分けられるのです。 流れの音にも邪魔されずに近ずくものが判り、またそうでなくてはこの山奥で生きては行けません。
「あのー 玉を磨くのを見たいんです」 取って付けたように答えた彼の心を読みとるように、「もうじき仕上がりますからどうぞご覧になって。 終わったら家へ帰りますけど糸魚川までご一緒します?」
母親の顔と男の顔と見比べながらいいます。 どうせ彼は着いて来るに違いな いと感じとり、母に目で相談していたのです。 「ハア、出来れば。 それにお願いもありますので」
やっと落ち着きを取り戻した大国主命は我に返りましたが、それでもまだ視線は娘に注がれて返事も半分上の空です。
3.「御諏訪様」
娘は「奴奈川比売(ヌナカワヒメ)」と呼ばれていました。 ヌナというのは翡翠のことで、今の姫川も昔は奴奈川(又は沼川・読みは同じヌナカワ)で翡翠の川 という意味です。 後世 比売の方を採って今の姫川になりました。 比売というのは卑弥呼の卑弥と同意語で呼は愛称、今の子と同じです。
大国主命(オオクニヌシノミコト)は糸魚川の姫(ヌナカワヒメ)の家に居候をしているうちにお互いに違う知識を豊富に持つことを知り、未知への憧れ(アコガレ)と才能に当然のように、足らざるものと、なり余れる物との接触で夫婦になったのは言うまでもありません。
大国主命は翡翠の勾玉と美人妻を手に入れて暫し故郷も忘れ、有頂天になっているうちに男の子が誕生しました。 この子は立派な若者に育ち父と母の才を受け継ぎ、お父さん以上に才能を持ち将来は立派な領主になるであろうと、民衆に慕われるようになりました。 名前は建御名方命(タケミナカタノミコト)と申します。
元々南方の人である大国主命は、いつしかこのあたりも自分の領土である、という意識があるため、自分より知力の勝る息子の評判の良さが少し面白くありません。 それである時息子に「ここは俺の領土だぞ」とダメ押しの宣言をしました。
「いやお父さん違うよ。 お父さんは他所(ヨソ)から来てお母さんの領土に入った言うなれば婿養子でしょ。 お母さんの土地は私が継ぐのが筋じゃありませんか」。
本当なら身分が違うといわれても仕方が無いのです。 こんなことから親子喧嘩がはじまったのです。
この親子喧嘩はとどまることを知らず、ついに戦にまで発展してしましまったのです。 父親の大国主は南方へ援軍を頼む。 領民の信頼は有るとは云え青年の建御名方命の方に付く軍勢は知れた物。 当然敗北です。 それでも子供の頃から この地で育った彼は年取った父より地理に明るく、姫川を遡って退却します。
今のように街道がある訳ではないので山の中を姫川上流に向かって逃げました。 この頃の戦いは大軍を率いてドッと攻め込むなんていうことは出来はしない。 何人もの者が固まって攻める道というものが無かったのです。 山の中に入ってしまえば追いかけることもできません。
建御名方命は慌てて逃げることもなく、行く先々で郷の衆(土地の人)に色々生活(クラシ)の足しになることを教えてゆきました。 荒れ地を開墾して麻の種を撒き麻を作ること、それを打って柔らかくして縄や網を作ること。
動物が集まって飲む水には塩分が含まれているので濃縮して野菜の保存ができること。 温泉・冷泉が病を癒すこと。等多くの生活に役立つことを教えたりして、割にのんびりした逃避行でした。
喧嘩してもそこは親子、たいして追撃もしなかったとみえます。 道々良政を施しながら諏訪湖にまで来て、ここに安住の地を見出しました。 そして御諏訪様と言われて今は全国の諏訪神社に祀られるほど慕われています。
諏訪大社下社秋の宮には正面に建御名方命、右手に母の奴奈川比売が祀ってあり姫の方の社には底のない柄杓が沢山奉納してあります。 これは姫にあやかって安産を願う善女が奉納したものです。
それとは別に奴奈河比売を主神とする社は糸魚川海岸寄りの道を名立に向かって進むんだところにあり姫と御諏訪様親子の像も糸魚川市内にあります。 大国主命の方はその後の消息はわかりませんが、大黒様になって貴方の近くに 居て庶民に福を授けて下さっているのでしょう。
~清 石…≧゜ゝー<
「塩の道はロマンの道」いというタイトルで久々にこの会議室に挙げた拙文ですが私の手違いで推敲前のものを挙げてしまったので、ひどく後悔しています。
なにもあわてることはない筈なのに、なにしろ初めてのフィクションでしたので、ファイル名の原稿を間違えたようです。 どうも気になって仕方がないので、ここに改めて挙げることをお許し下さい。 清 石
「ロマン街道塩の道」
父も母も知らない私は歴史というものを拒否してきました。 親の無い子はひねくれ者。 祖先を持たない若者の選ぶ道でした。 それがいつの間にか歴史というものを受け入れられるようになったのは、渓流釣りを初めてからです。
釣り竿一本を持って木曾街道を釣り歩き、大自然の美しさと人情の細やかさを肌で感じ、より多く自然の残された東北で渓流釣りを学びました。
再度、山の美しさでは有数の、長野県の北アルプスを通る峻険な千国(チクニ)街道をベースに渓魚を求め山道をさまよい歩くうちに、いつの間にか私の心の中には祖先の我々にに残してくれた貴重な足跡(ソクセキ)という道を発見し、歴史の存在を身をもって知って親子の繋がりをも信じるようになりました。
開闊(カイカツ)な木曽谷にも「檜一本首一つ」という過酷な現実があり、狭隘な千国街道には御諏訪様(建御名方命タケミナカタノミコト)の民を思うあまねく良政が普遍 しています。 この道を歩き、地勢を目で確かめ、其の地の人にふれ言葉を聞き、そして歴史と現実を知り、いつしか親を慕う最も自然な形の人間の心を持てるようになったのは、この二本の街道・すなわち道のおかげなのです。
これから其の道の一つ千国街道を私と一緒に皆様も歩いてみませんか。
1.「岩 戸」
此の道は木曽街道のような明るさと武家政治の匂いのする派手な道ではありません。 フォッサマグナに沿う暗く厳しい道なのです。 此の道に光を当てたのは一人の男。 建御名方命(タケミナカタノミコト)でした。
彼を知るには彼の父のことから知って頂いた方が、その数奇な運命を理解するのに必要、不可欠のものなので、ここからこの物語を出発します。
彼の父は「八千矛神(ヤチホコノカミ)」と申しますが別名の大国主命(オオクニヌシノミコト)の方をご存じかと思います。 この人は因幡の白兎にも出てくる有名な人物で、福の神として誰もが知る大国様のことです。
出身は、私には時代の前後が未解決ですが、福岡県(筑前阿曇郷)の豪族、安曇(アヅミ)氏の別れではないかと仮に解釈しています。 大体安曇族は領土に支障のない海洋を活動エリアとしていて、遠くは朝鮮まで交易があり岐阜・愛知にも同族を送り込み、繁栄した種族です。
現在人口に膾炙されている卑弥呼(ヒミコ)伝説。 この人も同族で一般的には 「天照大神」という方が理解し易いでしょう。 卑弥呼は女性であるにも拘わらず武勇が優れた方で着々とその領土を伸ばして行きましたが、実は武勇よりも大変頭の良い方で美人。
韓国の方からの東方の知識も豊富。 ということはこの民族本来は海洋民族なのでした。 彼女の為なら死も厭わない男達と優れた参謀。 これを巧みに使いこなす総司令の卑弥呼。 これが各地の平定となって歴史に残るのです。
大国主も参謀の一人で若くして人望の厚かった学者です。 平定した土地の民に其の土地に合う産物を利用して交易を教え大変利益をもたらしたので、若くして福の神と崇められたのです。
各地の珍しい植物のタネや利器を袋に詰めて側から離さなかったので、一方ではあの袋の中は宝石などの貢ぎ物が入っているのでないか、と憶測し妬むものもおりました。
卑弥呼も女性です。 何人かの男の子を産みました。 しかし女の子を産んだ記録はありません。 年を取れば美貌に憧れて付いてきた男でも知力に欠けて武力に勝る者のなかでは我が国王になろうとと企(タクラ)むものもいました。
大神は「私は太陽の神である。 この太陽が姿を消すときは私の役目の終わった時であり次ぎのものに地位を譲る」と宣言をしてしまいました。 こうしておくことによって謀反の起きるのを抑圧したのです。
何故ここまで彼女が言い切ったかというと、実は彼女は懐妊していたのでした。 賢明な女でも母としての本能で、すくなくても子供を産み落とすまでは現在の地位を保っていたかったのです。
そして間もなく運命の日が来るというとき、 智者の大国主を側に呼んで、言いました。
「間もなく日の隠れる時がくるであろう。 そのときは私の命の無くなる日でもある。 命(ミコト)よ。 我が子を守っておくれ。 もしも生まれた子が女であれば私の卑弥(ヒミ)を名乗らせて欲しい」
大国主の母と共にかねて祈りの場であった洞窟に入り戸を閉めて出てきませんでした。 ここで女の子を出産したのです。 外では皆既日食がはじまりました。 この日を大神は知っていたのです。
外では大混乱。このことを大神に知らせようとする者。 大神に再び太陽を照らして貰おうと岩戸に向かって嘆願するもの。 出て貰う為に太鼓を打ち鳴らす者。後から後から集まって大騒ぎです。
しかし大神を妬む者や地位を狙う者はこれを機会に命を狙います。 ウズメノミコトは気の狂ったようにストリップを踊りだします。 これは殺気を削ぐ策略でもありました。
怪力のタジカラオノミコトが腕力で扉を開けようとしたとき、なかから大神自身が扉を開き皆の前へ出てきて両手を広げ刺客の刃を胸に受けました。 そのときの様子は西洋神のキリストのそれと酷似しているのも不思議です。
刃(ヤイバ)を受けた後広げた両手を静かに合わせると、今まで隠れていた太陽が少しずつ光をなげて大神を照らし、やがてまばゆい光をいっぱいに輝かせ、暗黒の世界を光輝に満ちた世界に変え、並み居る者、善人も悪人も皆顔を覆い、やがて慟哭の声が広がります。
この隙きに、赤子を抱いた大国主の母が民衆の中に紛れこんだのを知る人は、大国主命ただ一人でした。
2.「翡 翠」
彼自身、未知の、北の国を目指して旅立ったのは理由があります。 母と卑弥呼の娘を、すでに平定してある領土依り北の地へ行くように言ってありました。
これも大神から言われていたことで、「遥か北方に向かえば、此の地面が東西に別れるところがある。 此処にヌナという貴重な石があり、其の石が我が子を救う」 といって首に掛けていた飾りの中から日の子の表徴とも言える数個の緑色の勾玉の一つを大国主に、一つを彼の母に渡しました。
一部の暴徒に依って起きた混乱も、他の地納めに向かっていた大神の御子が帰ってきて元の静けさを取り戻したのを見てから、大国主は出発しました。名目は北方の平定ということですが、これは大神腹心の部下を排除し、引き継ぐ者が遣りやすい陣営に立て直す、体(テイ)の良い左遷をされたのです。
船を以ていきなり遠方へ行ってしまっては怪しまれるし、同行するものに刺客が居ないとは限らない。 命(ミコト)の旅は表面上はのんびりしたものでした。 何故なら、彼は武力で征することをこのまず、智と人徳で民から信頼を受けたのです。
彼の背負う大きな袋は穀物や用途の多い植物、薬草の種、それに必要な小さい道具類が入っていました。 それは正に智・仁・勇を背負っていたことになります。
行く先々で民衆に施し、教え、助ける。 それが「白兎伝説」になったり福の神として崇められる要因になりました。 彼に疑心を抱くものもなくなり、治めた地へ残るものも居て、従者こそ少なくなりましたが、口伝えで名声は高まり、彼の来るのを歓迎するようになりました。
あるときは船であるときは徒歩で、北へ北へと日本海沿岸を進みました。 気の遠くなるような長旅です。 美しい玉の有る所を聞けば胸を踊らせて歩をすすめました。 それは色彩豊かな瑪瑙である事が多く、美しくはあるが硬度で劣り、傷つき易く光をうしないます。 あまりにも堅きに過ぎると割れてしまいます。 ヌナ(翡翠)に勝るものは見つかりませんでした。
どれも透明感のある緑いろのヌナではありませんでした。 大神の首に架けられたもののように魂を吸い取られるほどの緑でそれでいて暖かみと深みを備えたあの色の玉に会いたいのです。 そこに母も居るに違いありません。
地名も場所も現在のようにハッキリしていた訳ではありません。 隣の集落まで幾日もかかるところもあり、その集落の人に聞いても玉が有るということさへ知らない所が多いのです。 長い長い年と時間が過ぎました。
ある時、いつ果てるとも知れない絶壁の脇を航海してやっとたどり着いたのが小さな浜辺でした。 小砂利を敷き詰めたような浜辺の石は色とりどりの美しい色彩で、竜宮の入り口ではないかと見まがうほどでした。 その中に緑色の半透明の混じる白い石を発見しました。 ミコトの持つ勾玉と同じ石です。
それは今の青海川(オウミガワ)河口でした。 長い絶壁の海岸は最近まで、此のアタリ随一の「親知らず・子知らず」と言われた随一の難所でした。 ここが知られていなかったのは海に面して佇立する断崖絶壁で、南の国との行き来を阻害していたからです。
この集落の人に聞いたところによると、その石を上手に玉に磨き上げる人がこの山奥に居るということでした。 早速青海川を遡り、教えられた所へ行きました。 そこは湧き水のある山の奥で、仮住まいを造り親子二人が暮らしています。
その親子というのは彼の母と大神の娘で、母は麻を流れで晒してそれを石の上に置き丸木の槌で叩いて柔らかくしています。 その流れの下では娘が黒い石でヌナを磨いています。 磨かれている方は白地に緑が流れ込んだよう微妙な模様があり、娘の手に乳白色の液体が絶えずあふれて流れていました。
「こんにちは」 声を掛けると二人は驚いた様子もなく、作業の手を休めて会釈を返します。 まるでミコトが来るのを予知していたようでした。
山の中に長く棲むと遥か下から上がってくる足音に気付き、娘が敵意のない人と判断をしていたのです。 或いは命(ミコト)のことを母から聞いていたのかも知れません。
それより驚いたのは命(ミコト)の方です。 振り返って会釈した娘の美しいこと。 色は抜けるように白く、今磨がかれている翡翠の白。 鼻も高からず低からず、ミコトの今まで出会った南方系の浅黒い肌と違ってまるで異国の人でした。
作業衣なのでしょうが里のそれと異なり、良く晒してあります。 チラッとのぞく胸のあたりの白さは芳(カグワ)しい香りさえ漂うような素肌です。
命(ミコト)の胸の鼓動が高まり娘に聞こえるのではないかと顔に血の気がのぼります。
俗に言う一目惚れです。 もう声を掛けたところから一歩も動けまん。 身体じゅうに電流が流れ声も出ません。 先に声を掛けたのは娘の方でした。
実はこの娘、ここから糸魚川に掛けて女王様のように慕われていて、糸魚川の屋敷に帰れば、漁師は魚を、農民は穀物を、狩り人は獣(ケモノ)の肉をささげます。 これはこの親子が南の方から持ってきた衣料になる麻や農作物などをこのあたりの住民に与え指導して、僻地にもかかわらず、豊かに暮らせるようになったからです。
「何しにいらしたの」 娘はこの男が、かねてから聞いていた母の息子ということは、わかっていました。 狩りや漁の格好ではないし大きな袋を肩にしています。 澄んだ目をみれば敵意のないことも知性豊かな人であることも察せられます。
大昔の人間は今のように話せば判るのではなく、見ただけで敵意があるかどうかを判別する能力をそなえています。 歩く音で獣か人かの区別がつきますし、流れの音や風の向きや湿度で明日の晴雨を知り木のざわめきで天変地異を予測出来ます。 大自然の話し声が聞き分けられるのです。 流れの音にも邪魔されずに近ずくものが判り、またそうでなくてはこの山奥で生きては行けません。
「あのー 玉を磨くのを見たいんです」 取って付けたように答えた彼の心を読みとるように、「もうじき仕上がりますからどうぞご覧になって。 終わったら家へ帰りますけど糸魚川までご一緒します?」
母親の顔と男の顔と見比べながらいいます。 どうせ彼は着いて来るに違いな いと感じとり、母に目で相談していたのです。 「ハア、出来れば。 それにお願いもありますので」
やっと落ち着きを取り戻した大国主命は我に返りましたが、それでもまだ視線は娘に注がれて返事も半分上の空です。
3.「御諏訪様」
娘は「奴奈川比売(ヌナカワヒメ)」と呼ばれていました。 ヌナというのは翡翠のことで、今の姫川も昔は奴奈川(又は沼川・読みは同じヌナカワ)で翡翠の川 という意味です。 後世 比売の方を採って今の姫川になりました。 比売というのは卑弥呼の卑弥と同意語で呼は愛称、今の子と同じです。
大国主命(オオクニヌシノミコト)は糸魚川の姫(ヌナカワヒメ)の家に居候をしているうちにお互いに違う知識を豊富に持つことを知り、未知への憧れ(アコガレ)と才能に当然のように、足らざるものと、なり余れる物との接触で夫婦になったのは言うまでもありません。
大国主命は翡翠の勾玉と美人妻を手に入れて暫し故郷も忘れ、有頂天になっているうちに男の子が誕生しました。 この子は立派な若者に育ち父と母の才を受け継ぎ、お父さん以上に才能を持ち将来は立派な領主になるであろうと、民衆に慕われるようになりました。 名前は建御名方命(タケミナカタノミコト)と申します。
元々南方の人である大国主命は、いつしかこのあたりも自分の領土である、という意識があるため、自分より知力の勝る息子の評判の良さが少し面白くありません。 それである時息子に「ここは俺の領土だぞ」とダメ押しの宣言をしました。
「いやお父さん違うよ。 お父さんは他所(ヨソ)から来てお母さんの領土に入った言うなれば婿養子でしょ。 お母さんの土地は私が継ぐのが筋じゃありませんか」。
本当なら身分が違うといわれても仕方が無いのです。 こんなことから親子喧嘩がはじまったのです。
この親子喧嘩はとどまることを知らず、ついに戦にまで発展してしましまったのです。 父親の大国主は南方へ援軍を頼む。 領民の信頼は有るとは云え青年の建御名方命の方に付く軍勢は知れた物。 当然敗北です。 それでも子供の頃から この地で育った彼は年取った父より地理に明るく、姫川を遡って退却します。
今のように街道がある訳ではないので山の中を姫川上流に向かって逃げました。 この頃の戦いは大軍を率いてドッと攻め込むなんていうことは出来はしない。 何人もの者が固まって攻める道というものが無かったのです。 山の中に入ってしまえば追いかけることもできません。
建御名方命は慌てて逃げることもなく、行く先々で郷の衆(土地の人)に色々生活(クラシ)の足しになることを教えてゆきました。 荒れ地を開墾して麻の種を撒き麻を作ること、それを打って柔らかくして縄や網を作ること。
動物が集まって飲む水には塩分が含まれているので濃縮して野菜の保存ができること。 温泉・冷泉が病を癒すこと。等多くの生活に役立つことを教えたりして、割にのんびりした逃避行でした。
喧嘩してもそこは親子、たいして追撃もしなかったとみえます。 道々良政を施しながら諏訪湖にまで来て、ここに安住の地を見出しました。 そして御諏訪様と言われて今は全国の諏訪神社に祀られるほど慕われています。
諏訪大社下社秋の宮には正面に建御名方命、右手に母の奴奈川比売が祀ってあり姫の方の社には底のない柄杓が沢山奉納してあります。 これは姫にあやかって安産を願う善女が奉納したものです。
それとは別に奴奈河比売を主神とする社は糸魚川海岸寄りの道を名立に向かって進むんだところにあり姫と御諏訪様親子の像も糸魚川市内にあります。 大国主命の方はその後の消息はわかりませんが、大黒様になって貴方の近くに 居て庶民に福を授けて下さっているのでしょう。
~清 石…≧゜ゝー<
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2000年01月21日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 20 完」
95/11/01 22:30
「鶴見川からモントレ-へ」釣りによって出会った情景と人々 その20
第二十章 「平成七年 渓流釣り 解禁」
平成六年の七月に人事移動があり、岐阜県可児市に住むことになった。学校の関係で娘達は移動することが出来ず、町田市鶴川に残り、自分の持ち家に単身赴任すると言う不思議な生活をすることになった。
鶴川と言えば、ほぼ40年程前、始めて親父に釣りを教えてもらったのが鶴見川、その上流地域の鶴川に住む事になったのも何かの因縁であろう。しかし、何もかも変わってしまった。・・・・あの豊かだった緑や蓮華の花や彼岸花や清らかな流れはもう二度と見られないんだなぁ。・・・。。
さて、解禁。岐阜県、愛知県は二月一日、長野は二月十五日。山梨は三月十五日。各漁協によっても異なるが、大体この目安である。
年の始めに、今年はやるぞ! 二月に馬瀬川、寒狭川、三月には山梨地区の各渓流をと釣行計画の夢を膨らませた。
ところが、ちょうど、この時期、仕事も忙しくなり、このせいばかりでは無いと思うが、ストレスが胃に来てしまった。胃潰瘍の再発だ。潰瘍とは仲良くやってきたつもりであるが。
若い頃なら、胃の調子がおかしかろうが、頭が痛かろうが、そんなことは忘れて、渓へ吹っ飛んで行ったもんだが、この年になると無理は効かなくなる。又、無理して行くとなると女房に怒られる。(単身でいるんだから黙って行けば良いのに何でも女房に相談するものだからいけない)
何やかんやで、結局解禁時期には何処にも行けなかった。アメリカでの五年間を除けば、こんなことは渓流を始めて以来、始めてだ。お祭りに参加できなかったなんて。なさけない。
結局、竿を出せたのが五月の終わり頃で、場所は白川支流の赤川、釣れない。釣れるのはヤマベ (オイカワ) ばっかり。七月に鮎が解禁になるまで、同じ所へ何回も通って、釣れたのは18cm位のあまごがやっと一匹。
これだけ釣れないのなら、もっと他にも良い所がいっぱいあるのであるから、他の場所へ行けばよいものを。
僕はしつこいのか、執念深いのか、それとも馬鹿なのか、釣れないとなると釣れるまで同じ所を攻めると言う癖があるようだ。逆に釣れれば釣れたで同じ所へ出掛けるのであるが。
六月、七月以降は鮎に熱中するので、渓流釣りには行かなくなるが、八月が過ぎ、九月になってからも何回か行ったが坊主。今年の釣果はこのあまご一匹だけである。情けない!
数年程前にはあんなに釣れたのに、渓は変わってしまったのであろうか、あまごはいなくなってしまったんだろうか、舗装道路を通し、護岸したせいだろうか、見た目には何もかわっちゃいないが、何かおかしい。
来年も気をとりなおして、ここを攻めるぞ、悔しくて、悔しくて仕方がないんだ。あまごが待っていると信じている。
渓は変わってしまったんだろうか? 確かに、山女魚でも岩魚でも虹鱒と同じ様に養殖技術が進んでおり、あちこちの漁協であちこちに放流しているようであるがこれが良いことかどうか議論は分かれる所であろう。
我々釣り人にとっては有り難いことであるが、生態系に対してはどうなのであろうか、天然の山女魚や岩魚の稚魚が食べられやしないだろうかなんて、余計な心配をしたりして。
できれば、尻尾かピンピンに張っている山女魚や岩魚を釣りたいし、口の大きな鮎を釣りたい。でも、現状では放流魚に頼らざるを得ない。
本当にこれらが必要なのかどうかは判らないが、ダムや護岸工事や河口堰がどんどん造らてゆく。造らねばならぬ場合もあると思うが、自然とうまく共存する努力が必要だと思う。少なくても、川に上ってくる魚の邪魔になる行為や、海に下る魚の行為を邪魔してはならない、と思う。
こういう点から考えれば、渓はそっとしておいてやるのが一番であると思うがでもやはり、来年は多くの魚を釣りたい。矛盾だらけの僕の脳髄である。針をつけずに釣りをしている話を聞いたことがあるが、そんな心境になりたい。
僕の好きなあちこちの渓流、変わってしまった。発砲スチロ-ルの残骸、ポリ袋、アルミ缶、釣り糸の残骸、枝に絡んだ目印、そう言うものが多すぎる様な気がする。
アメリカの全てが決して良い訳では無いが、自然に対する考え方は日本より進んでいると思う。どこのス-パ-でも、 Paper or Plastic?"と買い物の袋を何にするか聞く、即ち、「紙袋にしますか、ポリ袋にしますか?」多くの人々は紙袋を選び、たまるとそれをス-パ-に返し、リサイクルする。
こう言う考え方が、ヨセミテ等の美しい渓を保っているのであろう。
皆が一寸の不便さを我慢すれば、僕の好きな渓流もよみがえり、山女魚も岩魚も戻ってくるとおもうが。
実は、解禁の数日前、今年も頑張るぞ! と張り切って、いつもの渓を見に行ったのです。ところが、発砲スチロ-ルの残骸、ポリ袋、アルミ缶、釣り糸の残骸、そのものだったのです。
もう釣りはやめよう、俺たちの仲間がこんな風にしてしまったんだ。こんなんならもう釣りはやめよう。
体の調子もあったけど、こんなことも渓流から離れてしまった一つの原因かも知れません。
来春からは気を取り戻して、がんばりたい!
皆さんの回りも随分と変わってしまったかもしれません。個人のやれることは小さいかも知れません。でも、渓流に入ったらたばこを吸わないとか、アルミ缶の酒はやめてスチ-ル缶にするとか、やれることはいくらでもあるはずだと思ってます。
僕の話はかなり矛盾だらけでひとりよがりの部分があります。でも、僕が「鶴見川からモントレ-へ」の中で言いたかったのは、「自然の素晴らしさ」「人間の素晴らしさ」を皆さんに伝え、それぞれの立場でそれぞれ、自然を、人間を大切にしてくれれば、その一助になれば良いと思ったからなのです。
諸先輩を前に、勝手な事を綴って申し訳なし。これで「鶴見川からモントレ-へ」をおわります。稚拙な話に付き合ってくれて有り難う!
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」釣りによって出会った情景と人々 その20
第二十章 「平成七年 渓流釣り 解禁」
平成六年の七月に人事移動があり、岐阜県可児市に住むことになった。学校の関係で娘達は移動することが出来ず、町田市鶴川に残り、自分の持ち家に単身赴任すると言う不思議な生活をすることになった。
鶴川と言えば、ほぼ40年程前、始めて親父に釣りを教えてもらったのが鶴見川、その上流地域の鶴川に住む事になったのも何かの因縁であろう。しかし、何もかも変わってしまった。・・・・あの豊かだった緑や蓮華の花や彼岸花や清らかな流れはもう二度と見られないんだなぁ。・・・。。
さて、解禁。岐阜県、愛知県は二月一日、長野は二月十五日。山梨は三月十五日。各漁協によっても異なるが、大体この目安である。
年の始めに、今年はやるぞ! 二月に馬瀬川、寒狭川、三月には山梨地区の各渓流をと釣行計画の夢を膨らませた。
ところが、ちょうど、この時期、仕事も忙しくなり、このせいばかりでは無いと思うが、ストレスが胃に来てしまった。胃潰瘍の再発だ。潰瘍とは仲良くやってきたつもりであるが。
若い頃なら、胃の調子がおかしかろうが、頭が痛かろうが、そんなことは忘れて、渓へ吹っ飛んで行ったもんだが、この年になると無理は効かなくなる。又、無理して行くとなると女房に怒られる。(単身でいるんだから黙って行けば良いのに何でも女房に相談するものだからいけない)
何やかんやで、結局解禁時期には何処にも行けなかった。アメリカでの五年間を除けば、こんなことは渓流を始めて以来、始めてだ。お祭りに参加できなかったなんて。なさけない。
結局、竿を出せたのが五月の終わり頃で、場所は白川支流の赤川、釣れない。釣れるのはヤマベ (オイカワ) ばっかり。七月に鮎が解禁になるまで、同じ所へ何回も通って、釣れたのは18cm位のあまごがやっと一匹。
これだけ釣れないのなら、もっと他にも良い所がいっぱいあるのであるから、他の場所へ行けばよいものを。
僕はしつこいのか、執念深いのか、それとも馬鹿なのか、釣れないとなると釣れるまで同じ所を攻めると言う癖があるようだ。逆に釣れれば釣れたで同じ所へ出掛けるのであるが。
六月、七月以降は鮎に熱中するので、渓流釣りには行かなくなるが、八月が過ぎ、九月になってからも何回か行ったが坊主。今年の釣果はこのあまご一匹だけである。情けない!
数年程前にはあんなに釣れたのに、渓は変わってしまったのであろうか、あまごはいなくなってしまったんだろうか、舗装道路を通し、護岸したせいだろうか、見た目には何もかわっちゃいないが、何かおかしい。
来年も気をとりなおして、ここを攻めるぞ、悔しくて、悔しくて仕方がないんだ。あまごが待っていると信じている。
渓は変わってしまったんだろうか? 確かに、山女魚でも岩魚でも虹鱒と同じ様に養殖技術が進んでおり、あちこちの漁協であちこちに放流しているようであるがこれが良いことかどうか議論は分かれる所であろう。
我々釣り人にとっては有り難いことであるが、生態系に対してはどうなのであろうか、天然の山女魚や岩魚の稚魚が食べられやしないだろうかなんて、余計な心配をしたりして。
できれば、尻尾かピンピンに張っている山女魚や岩魚を釣りたいし、口の大きな鮎を釣りたい。でも、現状では放流魚に頼らざるを得ない。
本当にこれらが必要なのかどうかは判らないが、ダムや護岸工事や河口堰がどんどん造らてゆく。造らねばならぬ場合もあると思うが、自然とうまく共存する努力が必要だと思う。少なくても、川に上ってくる魚の邪魔になる行為や、海に下る魚の行為を邪魔してはならない、と思う。
こういう点から考えれば、渓はそっとしておいてやるのが一番であると思うがでもやはり、来年は多くの魚を釣りたい。矛盾だらけの僕の脳髄である。針をつけずに釣りをしている話を聞いたことがあるが、そんな心境になりたい。
僕の好きなあちこちの渓流、変わってしまった。発砲スチロ-ルの残骸、ポリ袋、アルミ缶、釣り糸の残骸、枝に絡んだ目印、そう言うものが多すぎる様な気がする。
アメリカの全てが決して良い訳では無いが、自然に対する考え方は日本より進んでいると思う。どこのス-パ-でも、 Paper or Plastic?"と買い物の袋を何にするか聞く、即ち、「紙袋にしますか、ポリ袋にしますか?」多くの人々は紙袋を選び、たまるとそれをス-パ-に返し、リサイクルする。
こう言う考え方が、ヨセミテ等の美しい渓を保っているのであろう。
皆が一寸の不便さを我慢すれば、僕の好きな渓流もよみがえり、山女魚も岩魚も戻ってくるとおもうが。
実は、解禁の数日前、今年も頑張るぞ! と張り切って、いつもの渓を見に行ったのです。ところが、発砲スチロ-ルの残骸、ポリ袋、アルミ缶、釣り糸の残骸、そのものだったのです。
もう釣りはやめよう、俺たちの仲間がこんな風にしてしまったんだ。こんなんならもう釣りはやめよう。
体の調子もあったけど、こんなことも渓流から離れてしまった一つの原因かも知れません。
来春からは気を取り戻して、がんばりたい!
皆さんの回りも随分と変わってしまったかもしれません。個人のやれることは小さいかも知れません。でも、渓流に入ったらたばこを吸わないとか、アルミ缶の酒はやめてスチ-ル缶にするとか、やれることはいくらでもあるはずだと思ってます。
僕の話はかなり矛盾だらけでひとりよがりの部分があります。でも、僕が「鶴見川からモントレ-へ」の中で言いたかったのは、「自然の素晴らしさ」「人間の素晴らしさ」を皆さんに伝え、それぞれの立場でそれぞれ、自然を、人間を大切にしてくれれば、その一助になれば良いと思ったからなのです。
諸先輩を前に、勝手な事を綴って申し訳なし。これで「鶴見川からモントレ-へ」をおわります。稚拙な話に付き合ってくれて有り難う!
〔山男魚〕
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21:17
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2000年01月20日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 19」
95/10/31 22:08
「鶴見川からモントレ-へ」釣りによって出会った情景と人々 その19
第十九章 「平成六年 渓流釣り 解禁」
---ところで、月日の流れるのは本当に早く、平成五年(1993)の九月にアメリカから帰国し、町田市鶴川の社宅に住み、武蔵小杉の事務所に勤務となった。平成六年の春のことである。
さて、平成六年(1994)三月十四日、明日いよいよ解禁と言う日である。有給休暇の届けはもう出した。五年間のブランクはあったが、腕は落ちて居ないと思う。イクラを2パック、葡萄虫を2パック、手に入れた。
明日は合流に入るつもりである。六時から八時頃まで合流で釣りをし、その後玉川で、かずをと落ち合う。針は山女魚針の07から09を揃え、鱒針も念のため07から09まで揃える。おもりも小小から大大まで揃え、糸もグンT-の04から08まで揃えた。過去、糸はいろいろな物を使ったが、そのしなやかさ、値段の点からグンT-が最も好きである。
目印もセル製の物を数種類、竿は新しい物を買おうと思ったが、店であれこれ見たが気に入ったものが無く、今まで使っていた、NF・のカ-ボンロッドを使うこととする。本当の所、良い竿があるにはあるが、とても高くて手が出ない。
なんだって、こんなに高いんだろう。異常に高い。何でもかんでも高い。日本と言う国はどこかおかしい気もする。
そのうち、安売りス-パ-あたりに行って、安くて良い奴を捜そう。魚籠はプラスチック製で、氷などを一緒に入れることの出来るものを買った。竹で作られた魚籠が欲しかったが、最近では、竹製の魚籠はあまり流行らないとのこと。但、いずれか竹製の魚籠は買おうと思っている。道具は全て揃った。お守りのラッキ-ストライクの両切たばこの空き箱もある。
仕掛けは今晩編む。さあぁ出陣だ! 頑張るぞ! 朝は四時起きで中央道を通って、六時前には現場に着く。
この日のために、車もMPVを買ったんだ。頼むから雪なんか降らないで。
-- さて、今日は当日、目覚まし時計は朝四時にセットしてあったが、不思議なもので、三時半には眼が覚めてしまった。早速、コ-ヒ-とカップヌ-ドル用のお湯を沸かしポットに詰め込む。
道具や荷物は昨晩すでに車に詰め込んだ。四時ちょっと過ぎ、女房に送られて出発。鶴川から国立府中インタ-へ、国立府中インタ-から都留インタ-へ、都留インタ-から合流近くの駐車場に着いたのが五時半頃。さらにそこから、懐中電灯の灯を頼りに歩いて合流の釣場へ。
現場で釣りを始めたのが六時少し前。とても寒い。流れの上にはモヤがかかっている。 ポイントを確保し釣りの準備。手が震える。手先が冷たい。
解禁の時はいつも、鮎の場合でもそうだが、始めは手が震えてしょうがない。相当、興奮しているんだと思う。
震える指先でエサのイクラを三粒か四粒針に差し、第一投。僕は傾向として、ドンドン、早瀬、遅せ、落ち込み、淵、巻き込み、等、で余り大きな場所は好きでは無く、比較的小さなポイントが好きなので、この日も大きな場所は避け、適当に水量のある小さな瀬に向かって投入した。
夜が明けたばかりでまだ水面はほの暗く、又、靄が水面を覆っており、目印が辛うじて見える程度。流したとたんに、ググッと当たりがあって、慌てて合わせる。まさか第一投で来るとは思ってもいなかったので心の準備が出来ておらず、その慌て振りは端から見てたら面白かったに違いない。
釣れたのは25センチ程の鱒。針は魚の喉深く刺さっており、針外しを使って外そうとするが、気が焦ってなかなか外れない。周りには釣り人の姿も多いので、隙を見せるとポイントを、場所をとられてしまう。そんなに焦らなくても良いのであるが、第一投で釣れてしまったときの釣り人の心境とはこんなものである。
「こりゃ、今日は、すげえぞ、嫌になるほど釣れるぞ」そう思ってついつい慌ててしまうものである。ところがその後、全然アタリが無い。いい加減、瀬から淵、ドンドンに一寸づつポイントを変えて流すがアタリが無い。
寒くて水温が低いせいなのか、鱒も山女魚も居ないのか、いや、居ない筈はない。まわりを見回して見ても、釣り上げてる人は居ない様子。始めの一匹はなんだったんだ。確かに今までの経験で行くと、第一投で釣れた後はろくなことが無い。気を取り戻して、次のポイントへ移るが当たりは無い。
「クソッ! どうなってるんだ」こう言う場合は早い所、見切りをつけて場所を変わった方が良いので有るが、始めの一匹が引っ掛かって未練が残る。更に、上流に向かいポイントを 攻めて行く。アタリは相変わらず無い。
エサをイクラから葡萄虫に変えて流して見るが、相変わらずアラリは無い。それでも諦めずに、ポイントからポイントへ移動し釣り続け、やっとの思いで更に一匹釣り上げた。喰いは非常に浅く、辛うじて針が口に引っ掛かっている。やはり寒いせいで喰いも立たない様である。
ここで見切りを付けて、堰堤のある一番上まで歩いて、梯子の様な階段を登って道路にでる。この階段の入口にたどり着くために、岩場を5メ-トル程登らなければならない。岩場に手を掛けたとたん、手がビリビリと痺れる。ビリビリ草(いら草)にやられた。痛い、草の細い針状の棘に触れたところポツポツとたちまち腫れてくる。 山や岩場ではこいつに注意しなければならないことを忘れていた。渓流や山に入ると色々と危険な事があるので注意する必要がある。
さて、階段を上り、柵を乗り越えて、車に戻り、次の釣場である玉川に向かう。この渓は道路のすぐ脇を流れていて、小さな流れであるが、不思議に魚の濃いところで地元では有名な所。かずをとここで落ち合うことになっていた。
八時少し前に現場に着いたがかずをはまだきておらず、一人で釣り始める。ところがここも釣り人が多く入っており良いポイントはみな占領されている。ふと見回すと、比較的浅く、流れもあまり早くない瀬があり、ここには人が入っていない。
ふつうの釣り人はこう言う、小場所は魚がついていない、と判断して敬遠するものであるが、えてしてこう言う場所に魚がいるものである。瀬の上に静かに仕掛けを落とし、エサを流れに乗せてやる。三回程流すうちに瀬尻でアタリを感じるが、喰いが浅く、あわせても乗ってこない。
もう一度流す、目印がフッと揺れる。先回喰いが浅かったので、一瞬竿先を送り込んでから合わせる。見事、25センチ程の山女魚が釣り上がる。ここで続けて二匹釣れた。そうこうしてる内にかずおに出会う。彼も10匹程度の、型の良い鱒と山女魚を持っており、良い釣りをしたとのことであった。
ここで、しばらく釣りは休憩し、ポケットビンを取り出して河原で一服。これも楽しみの一つである。
今年も良い解禁を迎える事が出来て幸せである。かずをから虹鱒一匹と山女魚一匹を貰い、僕の釣った分と合わせて約十匹程、家に持って帰り、Smoked Troutを作った。先ず、腹を割いた虹鱒と山女魚を薄めの塩水に八時間程漬ける。その後、一時間ほど塩抜きして乾燥する。
スモ-ク液にはいろいろなレシピがあるようであるが、味を薄味にしたかったし、余り色々なスパイスをいれると本来の魚の風味が失われてしまうので、単純に塩水のみとした。
スモ-カ-はアメリカで手に入れた、ウェ-バ-のバ-ベキュ-セットを使用した。
スモ-ク専用のスモ-カ-はこれもアメリカで買って、別に持っているが、梱包を解いておらず、組み立てるのも面倒なので、ウェ-バ-を使う事にした。チップはヒッコリ-、楓、等のミックスチップを使用。温度を70~80℃位に保って約六時間、出来上がった物は色つやも味も良くなかなかの出来ばえであった。
その後、玉川でかずをに会った時、おみやげに四匹程あげた。酒の肴には最高である。虹鱒もこうやって食べると結構美味しいものである。山女魚の場合は、塩焼きで食べるのがやはり一番美味しいとは思うが、スモ-クにしておけば、日持ちがするし、冷蔵庫に入れておけば、いつでも好きなときに食べられて便利である。魚嫌いの人もスモ-クしたものであれば、抵抗なく食べられると思う。
が、作るのに非常に手間がかかる。温度を上げすぎてしまうと焦げてしまうし、低ければ生焼けになってしまうし、窯の前につきっきりで煙の出具合と温度を見ていなければならないので、それは大変である。街のデパ-ト等で売っているスモ-クドサ-モン等が高い訳である。
スモ-クのノウハウは、アメリカ、キャルフォルニアにいたとき釣り好きのGaryに教えてもらった。Garyとは、91年の春だったと思うが、Daveと僕の三人で、Halfmoon BayにRock Cod(根魚、クエの類)を釣りに行き、四十センチ位の物をかなり釣り上げ、これを用いて、Daveの家の庭でスモ-クし三人でワイン等飲みながらsmoked Codを作った。
朝九時頃から始めて、出来上がったのが三時頃で、Smoked Codが出来上がる頃には、すっかりこっちが出来上がってしまった。しかし、これは旨かった。醤油を少し付けて食べれば最高だった。
この時、チップはヒッコリ-材を用いた。それも釣り具屋やス-パ-で売っている様なチップでは無く、ヒッコリ-の木材を乾燥させて切り出した本格的な物で、そのうち僕もこの様な材料を手に入れたいとおもっている。又、材料としては、杉、檜、松、等でも良いと思うし、山椒の実や胡椒の実をスパイスとして一緒にスモ-クしても面白いと思う。今後、いろいろ試したいと思っている。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」釣りによって出会った情景と人々 その19
第十九章 「平成六年 渓流釣り 解禁」
---ところで、月日の流れるのは本当に早く、平成五年(1993)の九月にアメリカから帰国し、町田市鶴川の社宅に住み、武蔵小杉の事務所に勤務となった。平成六年の春のことである。
さて、平成六年(1994)三月十四日、明日いよいよ解禁と言う日である。有給休暇の届けはもう出した。五年間のブランクはあったが、腕は落ちて居ないと思う。イクラを2パック、葡萄虫を2パック、手に入れた。
明日は合流に入るつもりである。六時から八時頃まで合流で釣りをし、その後玉川で、かずをと落ち合う。針は山女魚針の07から09を揃え、鱒針も念のため07から09まで揃える。おもりも小小から大大まで揃え、糸もグンT-の04から08まで揃えた。過去、糸はいろいろな物を使ったが、そのしなやかさ、値段の点からグンT-が最も好きである。
目印もセル製の物を数種類、竿は新しい物を買おうと思ったが、店であれこれ見たが気に入ったものが無く、今まで使っていた、NF・のカ-ボンロッドを使うこととする。本当の所、良い竿があるにはあるが、とても高くて手が出ない。
なんだって、こんなに高いんだろう。異常に高い。何でもかんでも高い。日本と言う国はどこかおかしい気もする。
そのうち、安売りス-パ-あたりに行って、安くて良い奴を捜そう。魚籠はプラスチック製で、氷などを一緒に入れることの出来るものを買った。竹で作られた魚籠が欲しかったが、最近では、竹製の魚籠はあまり流行らないとのこと。但、いずれか竹製の魚籠は買おうと思っている。道具は全て揃った。お守りのラッキ-ストライクの両切たばこの空き箱もある。
仕掛けは今晩編む。さあぁ出陣だ! 頑張るぞ! 朝は四時起きで中央道を通って、六時前には現場に着く。
この日のために、車もMPVを買ったんだ。頼むから雪なんか降らないで。
-- さて、今日は当日、目覚まし時計は朝四時にセットしてあったが、不思議なもので、三時半には眼が覚めてしまった。早速、コ-ヒ-とカップヌ-ドル用のお湯を沸かしポットに詰め込む。
道具や荷物は昨晩すでに車に詰め込んだ。四時ちょっと過ぎ、女房に送られて出発。鶴川から国立府中インタ-へ、国立府中インタ-から都留インタ-へ、都留インタ-から合流近くの駐車場に着いたのが五時半頃。さらにそこから、懐中電灯の灯を頼りに歩いて合流の釣場へ。
現場で釣りを始めたのが六時少し前。とても寒い。流れの上にはモヤがかかっている。 ポイントを確保し釣りの準備。手が震える。手先が冷たい。
解禁の時はいつも、鮎の場合でもそうだが、始めは手が震えてしょうがない。相当、興奮しているんだと思う。
震える指先でエサのイクラを三粒か四粒針に差し、第一投。僕は傾向として、ドンドン、早瀬、遅せ、落ち込み、淵、巻き込み、等、で余り大きな場所は好きでは無く、比較的小さなポイントが好きなので、この日も大きな場所は避け、適当に水量のある小さな瀬に向かって投入した。
夜が明けたばかりでまだ水面はほの暗く、又、靄が水面を覆っており、目印が辛うじて見える程度。流したとたんに、ググッと当たりがあって、慌てて合わせる。まさか第一投で来るとは思ってもいなかったので心の準備が出来ておらず、その慌て振りは端から見てたら面白かったに違いない。
釣れたのは25センチ程の鱒。針は魚の喉深く刺さっており、針外しを使って外そうとするが、気が焦ってなかなか外れない。周りには釣り人の姿も多いので、隙を見せるとポイントを、場所をとられてしまう。そんなに焦らなくても良いのであるが、第一投で釣れてしまったときの釣り人の心境とはこんなものである。
「こりゃ、今日は、すげえぞ、嫌になるほど釣れるぞ」そう思ってついつい慌ててしまうものである。ところがその後、全然アタリが無い。いい加減、瀬から淵、ドンドンに一寸づつポイントを変えて流すがアタリが無い。
寒くて水温が低いせいなのか、鱒も山女魚も居ないのか、いや、居ない筈はない。まわりを見回して見ても、釣り上げてる人は居ない様子。始めの一匹はなんだったんだ。確かに今までの経験で行くと、第一投で釣れた後はろくなことが無い。気を取り戻して、次のポイントへ移るが当たりは無い。
「クソッ! どうなってるんだ」こう言う場合は早い所、見切りをつけて場所を変わった方が良いので有るが、始めの一匹が引っ掛かって未練が残る。更に、上流に向かいポイントを 攻めて行く。アタリは相変わらず無い。
エサをイクラから葡萄虫に変えて流して見るが、相変わらずアラリは無い。それでも諦めずに、ポイントからポイントへ移動し釣り続け、やっとの思いで更に一匹釣り上げた。喰いは非常に浅く、辛うじて針が口に引っ掛かっている。やはり寒いせいで喰いも立たない様である。
ここで見切りを付けて、堰堤のある一番上まで歩いて、梯子の様な階段を登って道路にでる。この階段の入口にたどり着くために、岩場を5メ-トル程登らなければならない。岩場に手を掛けたとたん、手がビリビリと痺れる。ビリビリ草(いら草)にやられた。痛い、草の細い針状の棘に触れたところポツポツとたちまち腫れてくる。 山や岩場ではこいつに注意しなければならないことを忘れていた。渓流や山に入ると色々と危険な事があるので注意する必要がある。
さて、階段を上り、柵を乗り越えて、車に戻り、次の釣場である玉川に向かう。この渓は道路のすぐ脇を流れていて、小さな流れであるが、不思議に魚の濃いところで地元では有名な所。かずをとここで落ち合うことになっていた。
八時少し前に現場に着いたがかずをはまだきておらず、一人で釣り始める。ところがここも釣り人が多く入っており良いポイントはみな占領されている。ふと見回すと、比較的浅く、流れもあまり早くない瀬があり、ここには人が入っていない。
ふつうの釣り人はこう言う、小場所は魚がついていない、と判断して敬遠するものであるが、えてしてこう言う場所に魚がいるものである。瀬の上に静かに仕掛けを落とし、エサを流れに乗せてやる。三回程流すうちに瀬尻でアタリを感じるが、喰いが浅く、あわせても乗ってこない。
もう一度流す、目印がフッと揺れる。先回喰いが浅かったので、一瞬竿先を送り込んでから合わせる。見事、25センチ程の山女魚が釣り上がる。ここで続けて二匹釣れた。そうこうしてる内にかずおに出会う。彼も10匹程度の、型の良い鱒と山女魚を持っており、良い釣りをしたとのことであった。
ここで、しばらく釣りは休憩し、ポケットビンを取り出して河原で一服。これも楽しみの一つである。
今年も良い解禁を迎える事が出来て幸せである。かずをから虹鱒一匹と山女魚一匹を貰い、僕の釣った分と合わせて約十匹程、家に持って帰り、Smoked Troutを作った。先ず、腹を割いた虹鱒と山女魚を薄めの塩水に八時間程漬ける。その後、一時間ほど塩抜きして乾燥する。
スモ-ク液にはいろいろなレシピがあるようであるが、味を薄味にしたかったし、余り色々なスパイスをいれると本来の魚の風味が失われてしまうので、単純に塩水のみとした。
スモ-カ-はアメリカで手に入れた、ウェ-バ-のバ-ベキュ-セットを使用した。
スモ-ク専用のスモ-カ-はこれもアメリカで買って、別に持っているが、梱包を解いておらず、組み立てるのも面倒なので、ウェ-バ-を使う事にした。チップはヒッコリ-、楓、等のミックスチップを使用。温度を70~80℃位に保って約六時間、出来上がった物は色つやも味も良くなかなかの出来ばえであった。
その後、玉川でかずをに会った時、おみやげに四匹程あげた。酒の肴には最高である。虹鱒もこうやって食べると結構美味しいものである。山女魚の場合は、塩焼きで食べるのがやはり一番美味しいとは思うが、スモ-クにしておけば、日持ちがするし、冷蔵庫に入れておけば、いつでも好きなときに食べられて便利である。魚嫌いの人もスモ-クしたものであれば、抵抗なく食べられると思う。
が、作るのに非常に手間がかかる。温度を上げすぎてしまうと焦げてしまうし、低ければ生焼けになってしまうし、窯の前につきっきりで煙の出具合と温度を見ていなければならないので、それは大変である。街のデパ-ト等で売っているスモ-クドサ-モン等が高い訳である。
スモ-クのノウハウは、アメリカ、キャルフォルニアにいたとき釣り好きのGaryに教えてもらった。Garyとは、91年の春だったと思うが、Daveと僕の三人で、Halfmoon BayにRock Cod(根魚、クエの類)を釣りに行き、四十センチ位の物をかなり釣り上げ、これを用いて、Daveの家の庭でスモ-クし三人でワイン等飲みながらsmoked Codを作った。
朝九時頃から始めて、出来上がったのが三時頃で、Smoked Codが出来上がる頃には、すっかりこっちが出来上がってしまった。しかし、これは旨かった。醤油を少し付けて食べれば最高だった。
この時、チップはヒッコリ-材を用いた。それも釣り具屋やス-パ-で売っている様なチップでは無く、ヒッコリ-の木材を乾燥させて切り出した本格的な物で、そのうち僕もこの様な材料を手に入れたいとおもっている。又、材料としては、杉、檜、松、等でも良いと思うし、山椒の実や胡椒の実をスパイスとして一緒にスモ-クしても面白いと思う。今後、いろいろ試したいと思っている。
〔山男魚〕
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2000年01月19日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 18」
95/10/30 21:52
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その18
第十八章 「サ-モン釣り & ぐうたら釣り」
その後、Montereyには何回となく行った。六月から七月のシ-ズンはサ-モン(キング)釣りに出掛けた。サ-モンはイワシをエサにして釣る所謂ム-チング釣りで20から30ポンド(10-15Kg) のものが良く釣れると聞いていた。
サ-モンのリミットは、一日ひとり二匹、一船十五匹である。案内所にはサ-モンを釣り上げて、手にぶらさげている写真が一杯かざってある。キングはこの季節、ベ-リング海からカナダ沿岸、サンフランシスコ沖を通ってここに回遊してくる。
KuroS さんと一緒にでかけた時のこと。朝はやくから何時間もがんばって、KuroS さんがやっと、掛けた、竿が弓なりになった、かなりの大物らしい。一生懸命リ-ルを巻き上げ、かなり船縁まで近づいてきた瞬間、締めていたドラッグをものともせず、リ-ルが逆転しラインが飛ぶ様に出でゆく。
「何だ、なんだ、どうなったんだ、なにがおきているんだ」
「わぁぁ、怪物だ、怪物がでたぞぅぅ」
船頭も飛んできて応援するが、どうにもならない。すると、沖目の方で黒茶色の怪物が身体をくねらせる。
「くそっ、正体はあいつか! 」
シ-ライオン (あざらし) が掛けたサ-モンを横取りしたのだ。やっとの思いでかけたのに、KuroS さんは本当に悔しそうな顔をしていた。
船頭に聞いてみると、こう言うこと良くあることで、シ-ライオンはこれが目当てで、出航のときから船のあとを追いかけて来るそうである。
その後、何回も出掛け、朝早くから夕方まで、船酔いに耐え、竿を振り回して頑張ったけど、不幸にも僕は一匹も釣ることができなかった。今だに残念で仕方がない。いずれか機会があったら再度挑戦したいものである。
但、妻と二人でカナダ旅行した際、バンク-バ-でサ-モン釣りツア-に出掛け、シルバ-サ-モンを一匹釣った事はある。これが今までの生涯でただ一匹のサ-モンである。
カナダはビクトリアパ-ク等々、美しい所が多かったがご他聞にもれず、海は汚れてきているそうで、環境破壊の問題は人種や国や宗教や地域や政策や政治や利益やその他何事にもとらわれずに人類全体で取り組むべき課題である。
話は変わって、KuroN さん、KuroN さんはN社のSan-Jose地区駐在のマネ-ジャ-で、我々とは競合するメ-カ-の方であったが、仕事の関係で知り合い、色々話をして行く内に、最近腰を痛めて趣味であったゴルフが出来なくなり、もっぱら釣りをしており、Half Moon Bay に良く行っているとの事。
いつか一緒に行きましょうと言う話が出来上がった。始めて一緒に行ったのはHalf Moon Bay で、時間を決めて現地で落合い楽しい一時を過ごしたものである。
二人して良く行ったのは、Stevens Creek Reserver、( 一種の湖) ここは家から15分位で行くことが出来、三月の中頃から五月の中頃にかけて、虹鱒が釣れる。
普通の投げ竿に中通しの重りを付け、ハリスを50から100センチ程取って、8号位の鱒針か山女魚針を付けて、Power Baitと言う一種の練り餌の様な物を直径1センチ程に丸めて取り付け、後はポイントに投げて当たりを待つ。
この間に用意した、良く冷えたビ-ル、Bud WieserやCoors を飲みながら、世間話や仕事の話や釣りの話をする訳である。
ビ-ルの旨いこと、本当に。何でこういう雰囲気で飲むBud WieserやCoors はうまいんだろう。最高だぜ。こうして、湖の辺に椅子等を持ち出しての、ぐうたら釣りが始まった。
虹鱒の当たりは、だいたいに於いて、そう大きいものではなく、竿先が多少揺れるか、緩み加減にしてある糸が動きだす程度で、当たりがあったら、しばらく待って合わせる方が良かった。
大きさは25から30センチ位で、リ-ルを巻いて引き上げて、手網で掬い取って、釣りハンガ-に掛けて水の中に放り込んで終了。但、そう数は釣れなかった。半日やって三匹位釣れれば上等であった。
KuroN さんもすっかりこの釣りが気に入ってしまって、仕事の合間を縫っては良く出掛けたものである。KuroS さん、と三人で楽しんだこともある。
仕事中に、KuroN さんから電話が掛かってくる。
「例の仕事の件で、今日打合せがしたいんですが都合はどうですか?」
「丁度よかった、私も是非と相談したいことがあったんですよ、それでは例のところで二時に合いましょう。」
と言う具合に話がまとまり、現場へ直行。仕掛けは常に車に積んであるので、何時でもOK。
大体、水曜日とか金曜日が多かったと記憶している。釣果は殆どの場合、KuroN さんの方が上で何度か悔しい思いをしたことがある。
又、土曜日は仕事が休みであるが、週一回開かれる日本語学校へ下二人の娘を朝八時半までに、車で15分程離れた、Kennedy Jr.High Schoolと言う学校に送って行かねばならなかった。面倒ではあったが、方向が丁度、釣場の方面であった。
娘たちを送ったついでに、その足で良く釣りに出掛けたものである。
それは素晴らしい、楽しい、清々しい、おおらかな、想い出である。カルガモの親子が水の上を泳ぎ回り、小さな子供達をつれてピクニックを楽しんでいるアメリカ人、メキシコ人、中国人。白いの、黒いの、黄色いのが回りにいる中で過ごした時間、空間はいつまでも忘れないであろう。
人間は、白かろうと、黒かろうと、黄色であろうと、仲良くなれるものである。その媒体に釣りと言うものがあれば、尚更である。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その18
第十八章 「サ-モン釣り & ぐうたら釣り」
その後、Montereyには何回となく行った。六月から七月のシ-ズンはサ-モン(キング)釣りに出掛けた。サ-モンはイワシをエサにして釣る所謂ム-チング釣りで20から30ポンド(10-15Kg) のものが良く釣れると聞いていた。
サ-モンのリミットは、一日ひとり二匹、一船十五匹である。案内所にはサ-モンを釣り上げて、手にぶらさげている写真が一杯かざってある。キングはこの季節、ベ-リング海からカナダ沿岸、サンフランシスコ沖を通ってここに回遊してくる。
KuroS さんと一緒にでかけた時のこと。朝はやくから何時間もがんばって、KuroS さんがやっと、掛けた、竿が弓なりになった、かなりの大物らしい。一生懸命リ-ルを巻き上げ、かなり船縁まで近づいてきた瞬間、締めていたドラッグをものともせず、リ-ルが逆転しラインが飛ぶ様に出でゆく。
「何だ、なんだ、どうなったんだ、なにがおきているんだ」
「わぁぁ、怪物だ、怪物がでたぞぅぅ」
船頭も飛んできて応援するが、どうにもならない。すると、沖目の方で黒茶色の怪物が身体をくねらせる。
「くそっ、正体はあいつか! 」
シ-ライオン (あざらし) が掛けたサ-モンを横取りしたのだ。やっとの思いでかけたのに、KuroS さんは本当に悔しそうな顔をしていた。
船頭に聞いてみると、こう言うこと良くあることで、シ-ライオンはこれが目当てで、出航のときから船のあとを追いかけて来るそうである。
その後、何回も出掛け、朝早くから夕方まで、船酔いに耐え、竿を振り回して頑張ったけど、不幸にも僕は一匹も釣ることができなかった。今だに残念で仕方がない。いずれか機会があったら再度挑戦したいものである。
但、妻と二人でカナダ旅行した際、バンク-バ-でサ-モン釣りツア-に出掛け、シルバ-サ-モンを一匹釣った事はある。これが今までの生涯でただ一匹のサ-モンである。
カナダはビクトリアパ-ク等々、美しい所が多かったがご他聞にもれず、海は汚れてきているそうで、環境破壊の問題は人種や国や宗教や地域や政策や政治や利益やその他何事にもとらわれずに人類全体で取り組むべき課題である。
話は変わって、KuroN さん、KuroN さんはN社のSan-Jose地区駐在のマネ-ジャ-で、我々とは競合するメ-カ-の方であったが、仕事の関係で知り合い、色々話をして行く内に、最近腰を痛めて趣味であったゴルフが出来なくなり、もっぱら釣りをしており、Half Moon Bay に良く行っているとの事。
いつか一緒に行きましょうと言う話が出来上がった。始めて一緒に行ったのはHalf Moon Bay で、時間を決めて現地で落合い楽しい一時を過ごしたものである。
二人して良く行ったのは、Stevens Creek Reserver、( 一種の湖) ここは家から15分位で行くことが出来、三月の中頃から五月の中頃にかけて、虹鱒が釣れる。
普通の投げ竿に中通しの重りを付け、ハリスを50から100センチ程取って、8号位の鱒針か山女魚針を付けて、Power Baitと言う一種の練り餌の様な物を直径1センチ程に丸めて取り付け、後はポイントに投げて当たりを待つ。
この間に用意した、良く冷えたビ-ル、Bud WieserやCoors を飲みながら、世間話や仕事の話や釣りの話をする訳である。
ビ-ルの旨いこと、本当に。何でこういう雰囲気で飲むBud WieserやCoors はうまいんだろう。最高だぜ。こうして、湖の辺に椅子等を持ち出しての、ぐうたら釣りが始まった。
虹鱒の当たりは、だいたいに於いて、そう大きいものではなく、竿先が多少揺れるか、緩み加減にしてある糸が動きだす程度で、当たりがあったら、しばらく待って合わせる方が良かった。
大きさは25から30センチ位で、リ-ルを巻いて引き上げて、手網で掬い取って、釣りハンガ-に掛けて水の中に放り込んで終了。但、そう数は釣れなかった。半日やって三匹位釣れれば上等であった。
KuroN さんもすっかりこの釣りが気に入ってしまって、仕事の合間を縫っては良く出掛けたものである。KuroS さん、と三人で楽しんだこともある。
仕事中に、KuroN さんから電話が掛かってくる。
「例の仕事の件で、今日打合せがしたいんですが都合はどうですか?」
「丁度よかった、私も是非と相談したいことがあったんですよ、それでは例のところで二時に合いましょう。」
と言う具合に話がまとまり、現場へ直行。仕掛けは常に車に積んであるので、何時でもOK。
大体、水曜日とか金曜日が多かったと記憶している。釣果は殆どの場合、KuroN さんの方が上で何度か悔しい思いをしたことがある。
又、土曜日は仕事が休みであるが、週一回開かれる日本語学校へ下二人の娘を朝八時半までに、車で15分程離れた、Kennedy Jr.High Schoolと言う学校に送って行かねばならなかった。面倒ではあったが、方向が丁度、釣場の方面であった。
娘たちを送ったついでに、その足で良く釣りに出掛けたものである。
それは素晴らしい、楽しい、清々しい、おおらかな、想い出である。カルガモの親子が水の上を泳ぎ回り、小さな子供達をつれてピクニックを楽しんでいるアメリカ人、メキシコ人、中国人。白いの、黒いの、黄色いのが回りにいる中で過ごした時間、空間はいつまでも忘れないであろう。
人間は、白かろうと、黒かろうと、黄色であろうと、仲良くなれるものである。その媒体に釣りと言うものがあれば、尚更である。
〔山男魚〕
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2000年01月18日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 17」
95/10/29 20:58
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その17
第十七章 「モントレ-での釣り」
忘れてはならない人に、KuroS さんがいる。KuroS さんはUと言う電子部品のメタルパ-ツを製造する会社の人で、子供たちの学校の関係で知り合ったが、滅法釣りが好きであると言う。
しばしば話をしているうち、これまた、KuroS さんの叔父さんがFresno(フレズノ) と言う所に住んでいて、この叔父さんがHooked on Fishing, Crazy Fishermanで少なくても、月に一回は釣りに出掛けないと気が狂ってしまう様な人であるとのこと。
戦争前にアメリカへ移民して、色々な農作物を、我々の住んでいたサンタクララバレ-より南へ二百マイルほど離れたフレズノと言う所で生産していた人で、今はリタイア-して、悠々自適の生活をしている。
しかし、戦中、戦後は随分と苦労したらしい。結局、アメリカ軍人として従軍し、ヨ-ロッパ戦線に参戦し、戦後は日本への進駐軍として、来日し通訳等、行ったそうである。
叔父さんの農場には、飛行場があり、畑に出掛けるのに飛行機で出掛けるとのスケ-ルの農場をもっている。しかし、どう言う訳か、釣りに嵌まってしまった訳である。
叔父さんの昔からの仲間、十人程で、月に一回、 Montery Bayより出船し、季節季節の釣りをしているとのことである。KuroS さんもこれに, たまに, 参加しているとのことであった。
但、我々の住んでいるCupertino からMontery まで、約二時間程掛かるので、一人で行くにはなかなか面倒で、しかも朝早いので、つい億劫になってあまり腰を上げなかった様である。
モントレ-と言うところは、旧カンズメ工場、水族館、ラッコ、シ-フッドレストラン、ペブルビ-チゴルフコ-ス等々で、今や有名な観光地になっており、前に、クリント イ-ストウッドが市長をしていたカ-メルもここからすぐである。
ところで、ある日、僕もこの釣り仲間に入れてもらう事にした。
MonteryへはHighway 101 を通って行くが、現地での集合時間は朝五時、従って、こちらを二時半か三時には出発しなければならず、前の日には早く寝る様にしたものである。
何回も行ったが、何時もKuroS さんの車で連れていってもらった。たまには僕の車で行きましょうと言うと、決まって、一人で行くのも、二人で行くのも一緒だからいいよ、と結局はKuroS さんにドライブしてもらうことになってしまった。
Montery の桟橋へ集合。桟橋から二十人乗り位の船で出て、釣場までは約二時間位かかる。チャ-タ-した船なので、場所はゆったり、費用は一人40ドルと掛け金 5ドル (これは、一番成績の良かった人への賞金となる。)
この二時間位の間に、仕掛けを編んだり、皆から色々な話を聞いたり、ワイワイ、ガヤガヤこの仲間は退役軍人が多く、皆好感の持てる人ばかりであった。この時に戦争中の苦労話や、戦後の生活や、あっちこっちの釣りの話。
叔父さんは本当に良い手をしている。傷だらけで、節々が太くて、ささくれ立っていて、厚い爪を持っている。ああゆう手を持っている人に悪い人はいない。僕はああゆう手が大好きだ。その叔父さんいわく、
「最近はここでも、魚が減ったみたいだよ、昔はすぐそこで白マグロが釣れたもんだが」
釣れにくくなっているのは世界的な傾向か。
春先は、Rock Cod, Ling Cod, King Fish, Flat Fish等の根魚類を狙った底釣り、日本で言うクエ、めばる、かれいに似た様な魚で、白身で、刺し身でも旨いし、フライにするとより美味しく食べられる。大きさは30~50cm位、一~二Kg位、一日のリミットは、Rock Cod類が十五匹、Ling Codが二匹である。海の魚にまでリミットを設けている。
Rock Cod: クエの一種であると思う。Orange, Pinky, Brown, と何種類かいる。
Ling Cod: 姿はナマズに似ていて、やたらに頭と口が大きく、歯が鋭い。
King Fish:イシモチに良く似た魚。
Flat Fish:カレイ、ヒラメ
その他、鰺や鯖も釣れるがあまり釣りの対象にはしない様である。
この釣りは疲れる釣りである。腕に力を、握力を付けて置かないととてもついて行けなくなる。従って、釣りの日程が決まると、エキスパンダ-と握力を付ける器具でトレ-ニングし、釣りに備えたものである。
竿はカチカチに硬めの一本竿、 (長さは1.8m位) 。おもりは一ポンド (ゴルフボ-ル位) か二ポンド (野球の軟球位) の丸型か細長型。
針は疑似針でこれも径にすると三センチ位の大きさのもの。これに、イカの短冊切りを更にエサとして付ける。全てに於いて大仕掛けである。
リ-ルも大型の魚に耐えられる比較的大きなものを使い、道糸はテトロンの10号程度、ハリスは5号程度を使ったが、他の人はもっと太い仕掛けを使っていたようである。まず、エサのイカの切り身を針に付ける。普通、針は3本針。
次にオモリと一緒に一気に海底まで落とし、1~2メ-トル海底を切って当たりを待つ。水深は50~70メ-トル位である。
当たりは水深の割りには明確で、手元にぐっぐっという当たりがあり、暫くそのまま待つと次の当たりがある。こうして、いっぺんに3匹掛けて釣るのが効率は良いが、なにせ1匹が1~2キロ位あり、オモリも重い、水深も深いので上げるのに一苦労である。
一生懸命、ポンピングして上げるが手が痛くなる。但、水深の深い所にいる魚なので、海面の近くにくるに従って、水圧の変化で浮袋が膨らんでしまい、浮くような状態となる。あまり暴れることはなくこの点は面白くはない。但、本当に重いだけである。電動リ-ル等を使う様な人はいない。
釣った魚はジャガイモやタマネギを入れる様な麻で作られたズダ袋に入れて持ってかえるか、多少のチップを出して船頭さんに料理いてもらう。
始めの内は魚のまま持って帰り、自分で料理いていたが、料理いた後の残骸を捨てる際、いくら厳重に密封してごみ箱に捨ててもすぐに臭くなり、結局はかみさんに叱られる羽目になり、多くの場合、釣った魚は船頭さんに料理いてもらうこととした。
すなわち、フィレットだけを持って帰る訳である。これを刺し身にしたり、フライにして食べた。なかなか旨いものだった。刺し身は白身のヒラメに似た感じかな、フライはクエの身の味かな (中華料理で良く出てくる白身のフライみたいである) Rock Codは、Orangeが一番旨かった。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その17
第十七章 「モントレ-での釣り」
忘れてはならない人に、KuroS さんがいる。KuroS さんはUと言う電子部品のメタルパ-ツを製造する会社の人で、子供たちの学校の関係で知り合ったが、滅法釣りが好きであると言う。
しばしば話をしているうち、これまた、KuroS さんの叔父さんがFresno(フレズノ) と言う所に住んでいて、この叔父さんがHooked on Fishing, Crazy Fishermanで少なくても、月に一回は釣りに出掛けないと気が狂ってしまう様な人であるとのこと。
戦争前にアメリカへ移民して、色々な農作物を、我々の住んでいたサンタクララバレ-より南へ二百マイルほど離れたフレズノと言う所で生産していた人で、今はリタイア-して、悠々自適の生活をしている。
しかし、戦中、戦後は随分と苦労したらしい。結局、アメリカ軍人として従軍し、ヨ-ロッパ戦線に参戦し、戦後は日本への進駐軍として、来日し通訳等、行ったそうである。
叔父さんの農場には、飛行場があり、畑に出掛けるのに飛行機で出掛けるとのスケ-ルの農場をもっている。しかし、どう言う訳か、釣りに嵌まってしまった訳である。
叔父さんの昔からの仲間、十人程で、月に一回、 Montery Bayより出船し、季節季節の釣りをしているとのことである。KuroS さんもこれに, たまに, 参加しているとのことであった。
但、我々の住んでいるCupertino からMontery まで、約二時間程掛かるので、一人で行くにはなかなか面倒で、しかも朝早いので、つい億劫になってあまり腰を上げなかった様である。
モントレ-と言うところは、旧カンズメ工場、水族館、ラッコ、シ-フッドレストラン、ペブルビ-チゴルフコ-ス等々で、今や有名な観光地になっており、前に、クリント イ-ストウッドが市長をしていたカ-メルもここからすぐである。
ところで、ある日、僕もこの釣り仲間に入れてもらう事にした。
MonteryへはHighway 101 を通って行くが、現地での集合時間は朝五時、従って、こちらを二時半か三時には出発しなければならず、前の日には早く寝る様にしたものである。
何回も行ったが、何時もKuroS さんの車で連れていってもらった。たまには僕の車で行きましょうと言うと、決まって、一人で行くのも、二人で行くのも一緒だからいいよ、と結局はKuroS さんにドライブしてもらうことになってしまった。
Montery の桟橋へ集合。桟橋から二十人乗り位の船で出て、釣場までは約二時間位かかる。チャ-タ-した船なので、場所はゆったり、費用は一人40ドルと掛け金 5ドル (これは、一番成績の良かった人への賞金となる。)
この二時間位の間に、仕掛けを編んだり、皆から色々な話を聞いたり、ワイワイ、ガヤガヤこの仲間は退役軍人が多く、皆好感の持てる人ばかりであった。この時に戦争中の苦労話や、戦後の生活や、あっちこっちの釣りの話。
叔父さんは本当に良い手をしている。傷だらけで、節々が太くて、ささくれ立っていて、厚い爪を持っている。ああゆう手を持っている人に悪い人はいない。僕はああゆう手が大好きだ。その叔父さんいわく、
「最近はここでも、魚が減ったみたいだよ、昔はすぐそこで白マグロが釣れたもんだが」
釣れにくくなっているのは世界的な傾向か。
春先は、Rock Cod, Ling Cod, King Fish, Flat Fish等の根魚類を狙った底釣り、日本で言うクエ、めばる、かれいに似た様な魚で、白身で、刺し身でも旨いし、フライにするとより美味しく食べられる。大きさは30~50cm位、一~二Kg位、一日のリミットは、Rock Cod類が十五匹、Ling Codが二匹である。海の魚にまでリミットを設けている。
Rock Cod: クエの一種であると思う。Orange, Pinky, Brown, と何種類かいる。
Ling Cod: 姿はナマズに似ていて、やたらに頭と口が大きく、歯が鋭い。
King Fish:イシモチに良く似た魚。
Flat Fish:カレイ、ヒラメ
その他、鰺や鯖も釣れるがあまり釣りの対象にはしない様である。
この釣りは疲れる釣りである。腕に力を、握力を付けて置かないととてもついて行けなくなる。従って、釣りの日程が決まると、エキスパンダ-と握力を付ける器具でトレ-ニングし、釣りに備えたものである。
竿はカチカチに硬めの一本竿、 (長さは1.8m位) 。おもりは一ポンド (ゴルフボ-ル位) か二ポンド (野球の軟球位) の丸型か細長型。
針は疑似針でこれも径にすると三センチ位の大きさのもの。これに、イカの短冊切りを更にエサとして付ける。全てに於いて大仕掛けである。
リ-ルも大型の魚に耐えられる比較的大きなものを使い、道糸はテトロンの10号程度、ハリスは5号程度を使ったが、他の人はもっと太い仕掛けを使っていたようである。まず、エサのイカの切り身を針に付ける。普通、針は3本針。
次にオモリと一緒に一気に海底まで落とし、1~2メ-トル海底を切って当たりを待つ。水深は50~70メ-トル位である。
当たりは水深の割りには明確で、手元にぐっぐっという当たりがあり、暫くそのまま待つと次の当たりがある。こうして、いっぺんに3匹掛けて釣るのが効率は良いが、なにせ1匹が1~2キロ位あり、オモリも重い、水深も深いので上げるのに一苦労である。
一生懸命、ポンピングして上げるが手が痛くなる。但、水深の深い所にいる魚なので、海面の近くにくるに従って、水圧の変化で浮袋が膨らんでしまい、浮くような状態となる。あまり暴れることはなくこの点は面白くはない。但、本当に重いだけである。電動リ-ル等を使う様な人はいない。
釣った魚はジャガイモやタマネギを入れる様な麻で作られたズダ袋に入れて持ってかえるか、多少のチップを出して船頭さんに料理いてもらう。
始めの内は魚のまま持って帰り、自分で料理いていたが、料理いた後の残骸を捨てる際、いくら厳重に密封してごみ箱に捨ててもすぐに臭くなり、結局はかみさんに叱られる羽目になり、多くの場合、釣った魚は船頭さんに料理いてもらうこととした。
すなわち、フィレットだけを持って帰る訳である。これを刺し身にしたり、フライにして食べた。なかなか旨いものだった。刺し身は白身のヒラメに似た感じかな、フライはクエの身の味かな (中華料理で良く出てくる白身のフライみたいである) Rock Codは、Orangeが一番旨かった。
〔山男魚〕
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2000年01月17日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 16」
95/10/28 22:45
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その16
第十六章 「ヨセミテでの釣り」
カルフォルニア州の中東部にヨセミテ渓谷と言う所がある。ここは有名な景勝地で国立公園になっている。セコイヤの大木、ヨセミテ滝、ハ-フド-ム等シェラネヴァダが造った渓谷でテレビ等でも紹介されているので、ご存じの方も多いと思う。
グランドキャニオンとかモニュメントバレ-とかの景勝地にも行ったが、ヨセミテが一番。ここは緑が多くて、ほんとに綺麗なところ、それはそれは素晴らしいところである。
すっかり気に入ってしまって、なんだかんだで7、8回は行ったであろうか。と言うのも、ここで日本の渓流なみの釣りができるのです。
シェラネバダに端を発する流れは沢山あるが、その一つに Marced River(マ-セド川) と言う流れがあり、この流れがヨセミテ国立公園を横断し渓谷を造形している。何となく、井川の上流に似ている。
ある年の五月の末に、家族と共に二泊でのヨセミテ行きを計画した。家から約約四時間程のドライブ。高速道路を通って、アメリカの高速道路は全てタダなので本当に有り難い、あっちの街、こっちの街を通って予約しておいたロッジに着く。
早速、景勝地や滝の探索に出掛け、国立公園の案内所へ行き、妻や娘たちは案内書を貰ったり、乗馬の場所を聞いている。こっちはそれどころではない。釣り好きそうなおじいさんの案内係をつかまえ質問する。
「釣りしたいんだけど、どこいら辺が良いですか?」
「???%%%??;;¥¥??」
これがすごい英語、昔から西部劇やいろいろな映画やテレビを一生懸命見ておいてよかった。モゴモゴ言語がはっきりしないが、何となく判る。
「どこがええっておみゃ-さん、このマ-セド川じゃ何処だって釣れるぜよ」
「どんな魚が釣れるですか?」
「Rainbow, Brown, Golden, かな、でっこいのがでるぜよ」
「^^^^^^^^^」
「ところで、おみゃ-さん、ライセンスはもってんだろうね?」
「もちろん、もってます。」
僕はこの時、キャルフォルニア全域、海水、淡水、湖水、オ-ルマイティの、
Fishing License を持っていた。と言っても年間25ドルである。
「やんなせぇ、やんなせぇ、どこででも」おじいさんニヤニヤする。
「でも、解禁は来週の今日から、来週またきなせぇ、一週間早かったね」
「。。。。。・・・・・。。。。。###・・・&&&。。。」
それはないだろう!、 今週の土曜日に解禁になるって聞いてきたんだ。しまった、やはり現地に問い合わせておけば良かった。アメリカでは情報の行き違いは日常茶飯事なのでかならず、何事においても、二重三重に確認しておけよ、注意を受けていたのに。
妻や娘達に笑われるやら、馬鹿にされるやら。
「ダディ、ダディは英語がわかんないんじゃないの、それで日にちを間違えたんじゃないの」
冗談じゃない、仕事の英語はわかんなくても、釣りの情報を聞き逃す訳はない。
一寸くらい、英語がしゃべれる様になったからと言って、いい気になるな。
と言っても、娘たちの英会話の上達は早かった。びっくりする位早かった。来て半年位で日常の会話をこなし、一年もすると、友達と冗談が言える様になり、二年もすると、電話で友達と長電話したり、喧嘩したり、三年するととてもこちらが追いつけない若者の英語をしゃべる様になる。柔らかい頭脳がうらやましい。
ところで、その後、仕事やら何やらでなかなかヨセミテへ行けなく、七月になって、ついに居たたまれなくなって、日帰りの釣行を決行した。妻は行き帰りの半分はドライバ-として一緒に行ってもらった。
ところが、川は洪水の様に水が増え釣り何かできる状態じゃないほど、増水している。シェラネバダの雪が一気に溶けて流れだしているのである。それでも、折角きたのであるからと竿を出して見たが釣れる訳はない。
ここは六月の始めから終わりの一ヵ月ほどが良いらしいことをこの時に知る。
次の年、六月の中頃、次女の和子とその友達のNINAを連れて、ハイキングとピクニックを兼ねてヨセミテに行った。もちろん、釣り道具をもって。
宿は去年と同じロッジ、こことは顔馴染みになってしまっている。午後四時頃ロッジに着き、娘どもはプ-ルで一泳ぎしてくると言う。よし、とばかり僕は早速釣道具を取り出し、馬鹿ナガを履いて、ロッジの向こう側に流れているマ-セド川に釣りに入った。
竿は日本から持って来た、NF..のカ-ボンロッド4.5m, 糸はグンの06、目印をつけた日本での典型的な渓流の釣り方。餌は生イクラ。
イクラとかみみずとか、餌を用いて釣りをする事をドン百姓釣りと言うそうな、ウォルトンが言ったのか、開高さんが言ったのか、Rivers Run Throughと言う映画にも出てきたが、Worm (ミミズ) で釣りをする人のことを、Farmer's Fisher Man(百姓の釣り) とゆうそうである。
余りにも餌釣り師を馬鹿にした言葉では無いだろうか、僕はルア-でもフライでも、毛針釣りでも、それはそれで、それぞれの主張があり、良いと思う。餌釣りは釣りの原点、誰のお陰で飯が食えるんだ。
そんな事が頭をよぎったが、そんなことは構わず、生イクラを使った。馬鹿ナガを履いて、道路を横切り、ブッシュをこいで流れに入り、仕掛けを編んで、流れ込みの上に第一投、この時程緊張することは無い。何回か流すがアタリは無い。
次のポイントに移り、同じ様に流す、流れていた目印がフッと揺れる。久しぶりの感触、ピシッと合わせたつもりだが、久しぶりなもんだから、焦っていたんだな、針がかりせず抜けてしまった。
同じポイントで暫く粘ったが二度とアタリは無かった。次のポイントに移動、今度はアタリが竿先に伝わってきた。今度こそはいただきだ、引き抜いて手元まで持って来たが手元が狂って、横に生えていた木の枝に糸が絡まってプッツン。魚は流れに。何と言う下手さ、何と言う醜態、ガックリ。
震える手で仕掛けを編みなおして、次、今度も明確なアタリが有り、落ちつけ、落ちつけと自分に言い聞かして、今度は慎重に取り込む。
手にしたのは32cm余りのレインボウ。しげしげと魚を観察する。側線の虹色がきれいだ、尻尾も三角形で綺麗。
虹鱒と言う魚がこんなに綺麗だとは思わなかった。
これから後は良く釣れた。まてよ! カルフォルニアのリミットは? 大きさ8インチ(20cm)以下は放流。一日五匹まで。布製の魚籠の中にはもう五匹いる。もっと釣りたかったがル-ルは守らなくては。
ここの人達はこう言うル-ルを本当に良く守る、大したものだと思う。本当に感心させられる。
次の日、娘達と、グレ-シャア-ポイントとか言う所を散策し、近くの山を散策した後、娘二人に竿を持たせて釣りをさせた。夕べ雨が降ったせいか、水かさが増していて状況は良くなかったが、ある淵でねばっていると、NINAの竿にアタリがあり、30cm近い虹鱒がかかり、娘共は大慌て。
僕もヴィデオなど撮っていたが慌てて飛んで行った。
「きゃぁ-、きゃぁ-」とにかく大騒ぎ。
やっとの思いで釣り上げた顔は嬉しそう、楽しそうだった。僕もそのあと、その下の瀬でブラウンを一匹釣った。これも非常に綺麗なブラウンであった。
なにせ空は抜ける様な青さ、水は豊穣で、木々は緑々で、岩肌は荒々しく、素晴らしい自然の中の一時。良い一時を過ごさせて貰った、自然に感謝。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その16
第十六章 「ヨセミテでの釣り」
カルフォルニア州の中東部にヨセミテ渓谷と言う所がある。ここは有名な景勝地で国立公園になっている。セコイヤの大木、ヨセミテ滝、ハ-フド-ム等シェラネヴァダが造った渓谷でテレビ等でも紹介されているので、ご存じの方も多いと思う。
グランドキャニオンとかモニュメントバレ-とかの景勝地にも行ったが、ヨセミテが一番。ここは緑が多くて、ほんとに綺麗なところ、それはそれは素晴らしいところである。
すっかり気に入ってしまって、なんだかんだで7、8回は行ったであろうか。と言うのも、ここで日本の渓流なみの釣りができるのです。
シェラネバダに端を発する流れは沢山あるが、その一つに Marced River(マ-セド川) と言う流れがあり、この流れがヨセミテ国立公園を横断し渓谷を造形している。何となく、井川の上流に似ている。
ある年の五月の末に、家族と共に二泊でのヨセミテ行きを計画した。家から約約四時間程のドライブ。高速道路を通って、アメリカの高速道路は全てタダなので本当に有り難い、あっちの街、こっちの街を通って予約しておいたロッジに着く。
早速、景勝地や滝の探索に出掛け、国立公園の案内所へ行き、妻や娘たちは案内書を貰ったり、乗馬の場所を聞いている。こっちはそれどころではない。釣り好きそうなおじいさんの案内係をつかまえ質問する。
「釣りしたいんだけど、どこいら辺が良いですか?」
「???%%%??;;¥¥??」
これがすごい英語、昔から西部劇やいろいろな映画やテレビを一生懸命見ておいてよかった。モゴモゴ言語がはっきりしないが、何となく判る。
「どこがええっておみゃ-さん、このマ-セド川じゃ何処だって釣れるぜよ」
「どんな魚が釣れるですか?」
「Rainbow, Brown, Golden, かな、でっこいのがでるぜよ」
「^^^^^^^^^」
「ところで、おみゃ-さん、ライセンスはもってんだろうね?」
「もちろん、もってます。」
僕はこの時、キャルフォルニア全域、海水、淡水、湖水、オ-ルマイティの、
Fishing License を持っていた。と言っても年間25ドルである。
「やんなせぇ、やんなせぇ、どこででも」おじいさんニヤニヤする。
「でも、解禁は来週の今日から、来週またきなせぇ、一週間早かったね」
「。。。。。・・・・・。。。。。###・・・&&&。。。」
それはないだろう!、 今週の土曜日に解禁になるって聞いてきたんだ。しまった、やはり現地に問い合わせておけば良かった。アメリカでは情報の行き違いは日常茶飯事なのでかならず、何事においても、二重三重に確認しておけよ、注意を受けていたのに。
妻や娘達に笑われるやら、馬鹿にされるやら。
「ダディ、ダディは英語がわかんないんじゃないの、それで日にちを間違えたんじゃないの」
冗談じゃない、仕事の英語はわかんなくても、釣りの情報を聞き逃す訳はない。
一寸くらい、英語がしゃべれる様になったからと言って、いい気になるな。
と言っても、娘たちの英会話の上達は早かった。びっくりする位早かった。来て半年位で日常の会話をこなし、一年もすると、友達と冗談が言える様になり、二年もすると、電話で友達と長電話したり、喧嘩したり、三年するととてもこちらが追いつけない若者の英語をしゃべる様になる。柔らかい頭脳がうらやましい。
ところで、その後、仕事やら何やらでなかなかヨセミテへ行けなく、七月になって、ついに居たたまれなくなって、日帰りの釣行を決行した。妻は行き帰りの半分はドライバ-として一緒に行ってもらった。
ところが、川は洪水の様に水が増え釣り何かできる状態じゃないほど、増水している。シェラネバダの雪が一気に溶けて流れだしているのである。それでも、折角きたのであるからと竿を出して見たが釣れる訳はない。
ここは六月の始めから終わりの一ヵ月ほどが良いらしいことをこの時に知る。
次の年、六月の中頃、次女の和子とその友達のNINAを連れて、ハイキングとピクニックを兼ねてヨセミテに行った。もちろん、釣り道具をもって。
宿は去年と同じロッジ、こことは顔馴染みになってしまっている。午後四時頃ロッジに着き、娘どもはプ-ルで一泳ぎしてくると言う。よし、とばかり僕は早速釣道具を取り出し、馬鹿ナガを履いて、ロッジの向こう側に流れているマ-セド川に釣りに入った。
竿は日本から持って来た、NF..のカ-ボンロッド4.5m, 糸はグンの06、目印をつけた日本での典型的な渓流の釣り方。餌は生イクラ。
イクラとかみみずとか、餌を用いて釣りをする事をドン百姓釣りと言うそうな、ウォルトンが言ったのか、開高さんが言ったのか、Rivers Run Throughと言う映画にも出てきたが、Worm (ミミズ) で釣りをする人のことを、Farmer's Fisher Man(百姓の釣り) とゆうそうである。
余りにも餌釣り師を馬鹿にした言葉では無いだろうか、僕はルア-でもフライでも、毛針釣りでも、それはそれで、それぞれの主張があり、良いと思う。餌釣りは釣りの原点、誰のお陰で飯が食えるんだ。
そんな事が頭をよぎったが、そんなことは構わず、生イクラを使った。馬鹿ナガを履いて、道路を横切り、ブッシュをこいで流れに入り、仕掛けを編んで、流れ込みの上に第一投、この時程緊張することは無い。何回か流すがアタリは無い。
次のポイントに移り、同じ様に流す、流れていた目印がフッと揺れる。久しぶりの感触、ピシッと合わせたつもりだが、久しぶりなもんだから、焦っていたんだな、針がかりせず抜けてしまった。
同じポイントで暫く粘ったが二度とアタリは無かった。次のポイントに移動、今度はアタリが竿先に伝わってきた。今度こそはいただきだ、引き抜いて手元まで持って来たが手元が狂って、横に生えていた木の枝に糸が絡まってプッツン。魚は流れに。何と言う下手さ、何と言う醜態、ガックリ。
震える手で仕掛けを編みなおして、次、今度も明確なアタリが有り、落ちつけ、落ちつけと自分に言い聞かして、今度は慎重に取り込む。
手にしたのは32cm余りのレインボウ。しげしげと魚を観察する。側線の虹色がきれいだ、尻尾も三角形で綺麗。
虹鱒と言う魚がこんなに綺麗だとは思わなかった。
これから後は良く釣れた。まてよ! カルフォルニアのリミットは? 大きさ8インチ(20cm)以下は放流。一日五匹まで。布製の魚籠の中にはもう五匹いる。もっと釣りたかったがル-ルは守らなくては。
ここの人達はこう言うル-ルを本当に良く守る、大したものだと思う。本当に感心させられる。
次の日、娘達と、グレ-シャア-ポイントとか言う所を散策し、近くの山を散策した後、娘二人に竿を持たせて釣りをさせた。夕べ雨が降ったせいか、水かさが増していて状況は良くなかったが、ある淵でねばっていると、NINAの竿にアタリがあり、30cm近い虹鱒がかかり、娘共は大慌て。
僕もヴィデオなど撮っていたが慌てて飛んで行った。
「きゃぁ-、きゃぁ-」とにかく大騒ぎ。
やっとの思いで釣り上げた顔は嬉しそう、楽しそうだった。僕もそのあと、その下の瀬でブラウンを一匹釣った。これも非常に綺麗なブラウンであった。
なにせ空は抜ける様な青さ、水は豊穣で、木々は緑々で、岩肌は荒々しく、素晴らしい自然の中の一時。良い一時を過ごさせて貰った、自然に感謝。
〔山男魚〕
Posted by nakano3 at
21:13
│Comments(0)
2000年01月16日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 15」
95/10/26 21:30
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その15
第十五章 「サクラメントリバ-/デルタでの釣り」
ある時、僕の趣味が釣りである事を知ると、いつか一緒に釣りに行こうと言う様な話がまとまった。1993年の五月、David彼の友達のFred、彼の部下のMakotoさん、僕の四人でSacramento Riverの下流域であるDeltaへの釣行を計画した。
我々の事務所のあるSunny ValeからFree Way 280から580を経由してRodiで一泊して帰ると言う一泊二日の釣行。Deltaと言う所は釣り人の間では有名な所で、かの開高健さんも挑戦したことのあるところで、Black Bass, Small Mouth Bass, Striped Bass, Rainbow Trout, Brown Trout, Cat Fish, Sturgeon等が釣れる。
前の日にスポ-ツショップでFishing licence(年券)を25ドルで購入し、更にDeltaの釣りに詳しいGaryと言う人に色々と情報を聞く。釣り師独特の話、しかも、近くのレストランでウイスキ-を飲みながらの話なので、話は必然的に大きくなる。
何せ大物が釣れるらしい。こちらも嫌いな方では無い上に、好きな釣りの話、ついつい飲みすぎてしまう。Davidが次々とWild Turkyをすすめてくれる。
好きな話題だと、英会話も苦にならない。比較的寡黙な僕だがこう言うときは舌が良く回る。
--考えて見たら、明日、釣りに行くのに何の準備もしていない。渓流用の竿二本ばかり持ってきたが、リ-ルだのリ-ル竿等は持ってきていない。これでは明日の釣りにはいけないぞ! と言う事に気が付き、その帰りに早速、K-Martに寄り、オモリ、竿、糸、リ-ル、ルア-、その他、道具や仕掛けを慌てて揃えた。
翌日、朝六時に集合して出発、風力発電の風車のある580号線を経てDeltaに到着、所要約四時間。DeltaでPatio Boatを借りて、いよいよ釣りが始まる。
イワシの切り身などをエサにして投げ釣りを行ったが、当たりは全く無い、ボ-トであっちこっちのポイントを探って当たりを待つが、当たりは無い。あっちこっちにルア-を飛ばして見るがアタリは全く無い。投げては引き、投げては引き。結局のところ坊主。
水温が低すぎるのか、原因は判らないが、魚さんは今日はお休みらしい。近くの釣り人に聞いてみても、アタリは全く無いと言う。よっぽど悪い日に来てしまった様である。まあ、こう言うこともあるさ、ビ-ルでも飲もう。
ボ-トの上でビ-ルを飲んでいる内に眠くなってしまい、横になって眠ってしまった。天気は良く、爽やかで、空気もうまく、空は澄み実に良い感じであった。DavidもFredもMakotoさんもビ-ルを飲むうち眠くなったと見えて、横になって眠っているようである。
と、突然、Makotoさんの竿に当たりがあった。慌ててMakotoさんがリ-ルを巻き込む、かなり重そうである。更に巻き込む、やったか?・・・重いには重そうだが動きが無い、残念ながら上がってきたのは、朽ちた木であった。「Si----et, It's just a branch, Gotsh 」( クソ--ッツ、ただの木じゃんか、バカ)
これを見て皆で大笑い。なかなかうまく行かないものである。
これを機に釣りは止め、Rodiの街に行きモ-テルに一泊し、翌日Johnson Cityに寄って、革のベルト何かを買って帰ってきた。魚は釣れなかったけど実に楽しい想い出になっている。
1993の九月に帰国したが、この時の素晴らしさは一生忘れないであろう。
日本から米国に駐在で来ている人のなかには、僕と同じく釣りの好きな人々がいて、どう言う訳か知らない内に知り合いになり、良く一緒に釣りに行ったものである。R ハットのTakaさん、この人にはHalf Moon Bay のSurf Fishingにつれて行っていってもらった。
ここは、サンフランスコから南に50Km位下った所である。その後、ここには一人や家族連れでも良く行ったが、水はきれいで、風景もよくなかなか爽やかな場所であった。釣れるのは、イチモチ、ブル-フィッシュ、かれい、海たなご、ダンジネスクラブ、たまに黒鯛、等である。妻といっしょに行くとき、妻はキルトの道具を一式持って、僕が釣りをしている側でせっせとキルトを編んでいたもので、仄かな一時であった。
長女の純子と一緒に行った事もある。家からHalf Moon Bay までHighway 280 を通って約一時間ほどかかるのでドライブするにと一緒の方が楽しくて良い。純子とは昔、純子が九才か十才の頃、山梨県都留市の玉川に一緒に釣りに行き、純子が大きな虹鱒を釣り上げ大騒ぎをしたことがある。どうやら釣りは好きらしい
。
この時も大きなイシモチを釣り上げて、大騒ぎをしたと記憶している。この時、純子は18才、父と若い娘が一緒に釣りをしている姿は素晴らしかったに違いないと思う。
次女の和子、三女の文子も連れ立って、家族でも良く出掛けたが、彼女等にとっては、釣りより蟹を追いかけたり、浜辺で遊んでいた方が楽しかったらしい。
又、TakaさんにはPark Way Lake と言う湖を紹介してもらった。ここは有料釣場になっており、確か一日10ドルだったと思う、虹鱒、ブラックバス等が釣れる。
六月のことだったと思うが、Takaさんと現地のアメリカ人と僕との三人で、朝早くから勇んで出掛けたことがあった。High Way 101を通って約一時間半程で現地に着く。
ところがその日は冬時間から夏時間に変わる日で、湖に入る道のゲ-トが閉まっており、七時にならないとゲ-トは開かない。現地には五時半(冬時間では六時半)についてしまい、車のなかで一時間半程待つことになってしまった。
一緒に行ったアメリカ人は日本語がペラペラで、この間、日本語と英語で釣りの話に花が咲き、待つのに苦はなかった。やっとゲ-トが開く時間となり湖の畔の駐車場に車を停め、それぞれ釣りの準備をして釣場へ向かう。
この日は手漕ぎのボ-トを借りてボ-トからのフィシングをやった。えさはパワ-ベイトと言うトラウト用の人工のえさで乾く前の粘土の様な物で、赤、ピンク、黄色、緑、青、白と色々な種類がある。これを 5mmから10mm位の径に丸めて針に付けてえさにする訳である。
仕掛けは投げ釣りとほとんど同じで、この日は結局、三匹位の虹鱒しか釣れなかったが楽しい時を過ごした。
Power Lakeには、その後、一人でビ-ルを持って行き、えさを仕掛けに付けて投げ込み置き竿にして当たりを待って、当たりがあるのをビ-ルを飲みながら待つ。と言うのんびりした釣りを何回かやった。
又、初夏のある日、三女の文子を連れて行き、暑い日差しと日焼けに耐えながら、丸一日がんばって、釣りをしたが、結局、文子が大きな虹鱒を一匹だけ釣っただけ、これだけしか釣れなかった、と言う様なこともあった。いずれにしても、のんびりした楽しい釣りの一時であった。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その15
第十五章 「サクラメントリバ-/デルタでの釣り」
ある時、僕の趣味が釣りである事を知ると、いつか一緒に釣りに行こうと言う様な話がまとまった。1993年の五月、David彼の友達のFred、彼の部下のMakotoさん、僕の四人でSacramento Riverの下流域であるDeltaへの釣行を計画した。
我々の事務所のあるSunny ValeからFree Way 280から580を経由してRodiで一泊して帰ると言う一泊二日の釣行。Deltaと言う所は釣り人の間では有名な所で、かの開高健さんも挑戦したことのあるところで、Black Bass, Small Mouth Bass, Striped Bass, Rainbow Trout, Brown Trout, Cat Fish, Sturgeon等が釣れる。
前の日にスポ-ツショップでFishing licence(年券)を25ドルで購入し、更にDeltaの釣りに詳しいGaryと言う人に色々と情報を聞く。釣り師独特の話、しかも、近くのレストランでウイスキ-を飲みながらの話なので、話は必然的に大きくなる。
何せ大物が釣れるらしい。こちらも嫌いな方では無い上に、好きな釣りの話、ついつい飲みすぎてしまう。Davidが次々とWild Turkyをすすめてくれる。
好きな話題だと、英会話も苦にならない。比較的寡黙な僕だがこう言うときは舌が良く回る。
--考えて見たら、明日、釣りに行くのに何の準備もしていない。渓流用の竿二本ばかり持ってきたが、リ-ルだのリ-ル竿等は持ってきていない。これでは明日の釣りにはいけないぞ! と言う事に気が付き、その帰りに早速、K-Martに寄り、オモリ、竿、糸、リ-ル、ルア-、その他、道具や仕掛けを慌てて揃えた。
翌日、朝六時に集合して出発、風力発電の風車のある580号線を経てDeltaに到着、所要約四時間。DeltaでPatio Boatを借りて、いよいよ釣りが始まる。
イワシの切り身などをエサにして投げ釣りを行ったが、当たりは全く無い、ボ-トであっちこっちのポイントを探って当たりを待つが、当たりは無い。あっちこっちにルア-を飛ばして見るがアタリは全く無い。投げては引き、投げては引き。結局のところ坊主。
水温が低すぎるのか、原因は判らないが、魚さんは今日はお休みらしい。近くの釣り人に聞いてみても、アタリは全く無いと言う。よっぽど悪い日に来てしまった様である。まあ、こう言うこともあるさ、ビ-ルでも飲もう。
ボ-トの上でビ-ルを飲んでいる内に眠くなってしまい、横になって眠ってしまった。天気は良く、爽やかで、空気もうまく、空は澄み実に良い感じであった。DavidもFredもMakotoさんもビ-ルを飲むうち眠くなったと見えて、横になって眠っているようである。
と、突然、Makotoさんの竿に当たりがあった。慌ててMakotoさんがリ-ルを巻き込む、かなり重そうである。更に巻き込む、やったか?・・・重いには重そうだが動きが無い、残念ながら上がってきたのは、朽ちた木であった。「Si----et, It's just a branch, Gotsh 」( クソ--ッツ、ただの木じゃんか、バカ)
これを見て皆で大笑い。なかなかうまく行かないものである。
これを機に釣りは止め、Rodiの街に行きモ-テルに一泊し、翌日Johnson Cityに寄って、革のベルト何かを買って帰ってきた。魚は釣れなかったけど実に楽しい想い出になっている。
1993の九月に帰国したが、この時の素晴らしさは一生忘れないであろう。
日本から米国に駐在で来ている人のなかには、僕と同じく釣りの好きな人々がいて、どう言う訳か知らない内に知り合いになり、良く一緒に釣りに行ったものである。R ハットのTakaさん、この人にはHalf Moon Bay のSurf Fishingにつれて行っていってもらった。
ここは、サンフランスコから南に50Km位下った所である。その後、ここには一人や家族連れでも良く行ったが、水はきれいで、風景もよくなかなか爽やかな場所であった。釣れるのは、イチモチ、ブル-フィッシュ、かれい、海たなご、ダンジネスクラブ、たまに黒鯛、等である。妻といっしょに行くとき、妻はキルトの道具を一式持って、僕が釣りをしている側でせっせとキルトを編んでいたもので、仄かな一時であった。
長女の純子と一緒に行った事もある。家からHalf Moon Bay までHighway 280 を通って約一時間ほどかかるのでドライブするにと一緒の方が楽しくて良い。純子とは昔、純子が九才か十才の頃、山梨県都留市の玉川に一緒に釣りに行き、純子が大きな虹鱒を釣り上げ大騒ぎをしたことがある。どうやら釣りは好きらしい
。
この時も大きなイシモチを釣り上げて、大騒ぎをしたと記憶している。この時、純子は18才、父と若い娘が一緒に釣りをしている姿は素晴らしかったに違いないと思う。
次女の和子、三女の文子も連れ立って、家族でも良く出掛けたが、彼女等にとっては、釣りより蟹を追いかけたり、浜辺で遊んでいた方が楽しかったらしい。
又、TakaさんにはPark Way Lake と言う湖を紹介してもらった。ここは有料釣場になっており、確か一日10ドルだったと思う、虹鱒、ブラックバス等が釣れる。
六月のことだったと思うが、Takaさんと現地のアメリカ人と僕との三人で、朝早くから勇んで出掛けたことがあった。High Way 101を通って約一時間半程で現地に着く。
ところがその日は冬時間から夏時間に変わる日で、湖に入る道のゲ-トが閉まっており、七時にならないとゲ-トは開かない。現地には五時半(冬時間では六時半)についてしまい、車のなかで一時間半程待つことになってしまった。
一緒に行ったアメリカ人は日本語がペラペラで、この間、日本語と英語で釣りの話に花が咲き、待つのに苦はなかった。やっとゲ-トが開く時間となり湖の畔の駐車場に車を停め、それぞれ釣りの準備をして釣場へ向かう。
この日は手漕ぎのボ-トを借りてボ-トからのフィシングをやった。えさはパワ-ベイトと言うトラウト用の人工のえさで乾く前の粘土の様な物で、赤、ピンク、黄色、緑、青、白と色々な種類がある。これを 5mmから10mm位の径に丸めて針に付けてえさにする訳である。
仕掛けは投げ釣りとほとんど同じで、この日は結局、三匹位の虹鱒しか釣れなかったが楽しい時を過ごした。
Power Lakeには、その後、一人でビ-ルを持って行き、えさを仕掛けに付けて投げ込み置き竿にして当たりを待って、当たりがあるのをビ-ルを飲みながら待つ。と言うのんびりした釣りを何回かやった。
又、初夏のある日、三女の文子を連れて行き、暑い日差しと日焼けに耐えながら、丸一日がんばって、釣りをしたが、結局、文子が大きな虹鱒を一匹だけ釣っただけ、これだけしか釣れなかった、と言う様なこともあった。いずれにしても、のんびりした楽しい釣りの一時であった。
〔山男魚〕
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2000年01月15日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 14」
95/10/24 23:01
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その14
私も相当しつこい質で、たわいない事を、あるいは自分よがりなことを言いつづております。皆様には申し訳ありませんが、今しばらく拙い文章につきあって下さい。その20位で完結したいと思ってます。
第十四章 「アメリカでの生活、並びに、釣り」
平成元年(1989)三月、仕事の関係で、アメリカ、キャルフォルニア、サンノゼ地区への駐在となり、渡米する。アメリカには出張で何回か行ったことはあるが腰を据えて駐在するのは始めてある。
不安が全く無かったわけでは無い。但、不満はなかった。心残りは折角、これからと言う山女魚釣り、岩魚釣りが出来なくなること、及び、数年前から始めてその面白さが判り始めた鮎釣りが出来なくなることであった。
あの辺には、山女魚はいるんだろうか? と、いろいろな本やら、詳しそうな人に聞いて、調べて見ると、山女魚に良く似た、Calfornia Golden Traut、岩魚によく似た、Charと言うのが居るらしい。
落ちついたら、狙ってみよう。渓流の道具だけは持っていこう。
問題は全く無かった訳ではない。生活、金銭、健康、子供たちの教育、等々。
しかし、むしろ、喜んで行ったと言って良いと思う。子供の頃から西部劇やテレビドラマやポピュラ-ミュ-ジックでアメリカに憧れていた部分があったのかも知れない。
今でこそ、日本は物質的に豊かな国になったと思うが、僕が子供の頃は、あの豊かなで自由なアメリカに憧れたものである。言葉や生活慣習の違い、身の安全、治安、子供たちの学校、その他、不安な要素は多々あったが、「まぁ、何とかなるさ」と楽天的に考えた訳である。
悲観的に物事を考えるのは嫌いな性格である。家族を連れて行くかどうかで迷った。この時、僕は44才、妻は40才、長女の純子が17才(高三)、次女の和子が13才(中二)、三女の文子が11才(小六)である。
彼女等は英語なんてものは全然しゃべれないし、それぞれ、難しい年頃、しかも女の娘である。普通であれば、家族は日本に置いて、自分一人で行くべきであろう。
かなり悩んだ。しかし、長い目で見れば必ず、良い経験になると確信し、又、妻も娘達もそれぞれ、精神的にも強い面があるのでアメリカでの生活に十分耐えられるし、エンジョイできるであろうと考え、連れて行く事とした。
とりあえず、僕が単身で行き、生活の基盤を築き、三ヵ月後に家族を呼びCupertino 市のアパ-トで生活することとなった。
California, San-Jose Areaと言う所は良いところだ。空の色が違うね。所謂California Blue の空、緑の多さ、木々の大きさ、各種の花の色の艶やかさ。
日本のものとは明らかに異なり同じアガパンサスでもスパティフィラムでもポピ-等の花でも、杉や松やアカシヤの木でも日本の二倍位ある。一年中、気候が穏やかなので大きく成長するのであろうか。人間も大きいが植物も大きい。
きっとあれは毎日の様に肉をたらふく食べているせいで、人間が大きくなり、これに伴って植物も大きくなるものと思われる。又、その土地の広大さには全く目を見張るものがある。
この分なら、釣魚もおおきいぞ、なんて一人でほくそえんだりする。
いやぁ広い国だ。我々の父や祖父は無謀な事をしてしまった様に思える。こんなに大きく、筋肉隆々としている人達と喧嘩しても勝てる訳がなかった。
それはともかくとして、ここで、我々の代理店の社長をしているDavid Binkerd氏と一緒に仕事をする事になる。彼は、身長185センチ、体重120キロ位の巨漢ではあるが、非常に優しく他人に対して気を使う人で、年齢は僕より5才位うえと思われ、酒が好きでしかも滅法強いと言う典型的なアメリカ人である。
彼と始めて会ったのは、1987年、我々の会社と彼の会社で代理店契約が成された時であったが、この人とならうまくやって行けそうだと言う予感はあった。残念ながら仕事の方は縮小方向に動き、又、1993年に代理店契約は切れてしまったが、今でも文通などで連絡は取り合っている。
Davidとは良く酒を飲みに行った。ある時は、客先との打合せ後、昼間から飲みに行った事もある。そんな折りに、家族の話、歴史の話、西部劇の話、アメリカの観光地の話、政治の話、音楽の話、仕事の話、日本の話、趣味の話、等々話題はつきなかった。
もし、アメリカに行くのなら、North CaliforniaからOregonをお薦めしたい。海も川も山も空も森も、それはきれいです。こんなところで竿を出す気分は最高だとは思いませんか?
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その14
私も相当しつこい質で、たわいない事を、あるいは自分よがりなことを言いつづております。皆様には申し訳ありませんが、今しばらく拙い文章につきあって下さい。その20位で完結したいと思ってます。
第十四章 「アメリカでの生活、並びに、釣り」
平成元年(1989)三月、仕事の関係で、アメリカ、キャルフォルニア、サンノゼ地区への駐在となり、渡米する。アメリカには出張で何回か行ったことはあるが腰を据えて駐在するのは始めてある。
不安が全く無かったわけでは無い。但、不満はなかった。心残りは折角、これからと言う山女魚釣り、岩魚釣りが出来なくなること、及び、数年前から始めてその面白さが判り始めた鮎釣りが出来なくなることであった。
あの辺には、山女魚はいるんだろうか? と、いろいろな本やら、詳しそうな人に聞いて、調べて見ると、山女魚に良く似た、Calfornia Golden Traut、岩魚によく似た、Charと言うのが居るらしい。
落ちついたら、狙ってみよう。渓流の道具だけは持っていこう。
問題は全く無かった訳ではない。生活、金銭、健康、子供たちの教育、等々。
しかし、むしろ、喜んで行ったと言って良いと思う。子供の頃から西部劇やテレビドラマやポピュラ-ミュ-ジックでアメリカに憧れていた部分があったのかも知れない。
今でこそ、日本は物質的に豊かな国になったと思うが、僕が子供の頃は、あの豊かなで自由なアメリカに憧れたものである。言葉や生活慣習の違い、身の安全、治安、子供たちの学校、その他、不安な要素は多々あったが、「まぁ、何とかなるさ」と楽天的に考えた訳である。
悲観的に物事を考えるのは嫌いな性格である。家族を連れて行くかどうかで迷った。この時、僕は44才、妻は40才、長女の純子が17才(高三)、次女の和子が13才(中二)、三女の文子が11才(小六)である。
彼女等は英語なんてものは全然しゃべれないし、それぞれ、難しい年頃、しかも女の娘である。普通であれば、家族は日本に置いて、自分一人で行くべきであろう。
かなり悩んだ。しかし、長い目で見れば必ず、良い経験になると確信し、又、妻も娘達もそれぞれ、精神的にも強い面があるのでアメリカでの生活に十分耐えられるし、エンジョイできるであろうと考え、連れて行く事とした。
とりあえず、僕が単身で行き、生活の基盤を築き、三ヵ月後に家族を呼びCupertino 市のアパ-トで生活することとなった。
California, San-Jose Areaと言う所は良いところだ。空の色が違うね。所謂California Blue の空、緑の多さ、木々の大きさ、各種の花の色の艶やかさ。
日本のものとは明らかに異なり同じアガパンサスでもスパティフィラムでもポピ-等の花でも、杉や松やアカシヤの木でも日本の二倍位ある。一年中、気候が穏やかなので大きく成長するのであろうか。人間も大きいが植物も大きい。
きっとあれは毎日の様に肉をたらふく食べているせいで、人間が大きくなり、これに伴って植物も大きくなるものと思われる。又、その土地の広大さには全く目を見張るものがある。
この分なら、釣魚もおおきいぞ、なんて一人でほくそえんだりする。
いやぁ広い国だ。我々の父や祖父は無謀な事をしてしまった様に思える。こんなに大きく、筋肉隆々としている人達と喧嘩しても勝てる訳がなかった。
それはともかくとして、ここで、我々の代理店の社長をしているDavid Binkerd氏と一緒に仕事をする事になる。彼は、身長185センチ、体重120キロ位の巨漢ではあるが、非常に優しく他人に対して気を使う人で、年齢は僕より5才位うえと思われ、酒が好きでしかも滅法強いと言う典型的なアメリカ人である。
彼と始めて会ったのは、1987年、我々の会社と彼の会社で代理店契約が成された時であったが、この人とならうまくやって行けそうだと言う予感はあった。残念ながら仕事の方は縮小方向に動き、又、1993年に代理店契約は切れてしまったが、今でも文通などで連絡は取り合っている。
Davidとは良く酒を飲みに行った。ある時は、客先との打合せ後、昼間から飲みに行った事もある。そんな折りに、家族の話、歴史の話、西部劇の話、アメリカの観光地の話、政治の話、音楽の話、仕事の話、日本の話、趣味の話、等々話題はつきなかった。
もし、アメリカに行くのなら、North CaliforniaからOregonをお薦めしたい。海も川も山も空も森も、それはきれいです。こんなところで竿を出す気分は最高だとは思いませんか?
〔山男魚〕
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2000年01月13日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 12」
95/10/22 22:47
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その12
第十二章 「奥利根での釣り」
あれはいつの事だったであろうか、1980年か1981年の頃であると思う。雑誌や新聞によると「奥利根」と言う、利根川の最上流は尺以上の岩魚が入れ食い状態で釣れる所であると評判であった。
釣り仲間の間では、いつか行って見たい所と話が高まっていた。そんなある日、話に聞いている奥利根とやらに一回行って見ようではないかと話がまとまった。季節は、山吹の花がいっぱい咲いていたのを憶えているから、五月の終わり頃ではなかったかと思う。
行くメンバ-は、やっさん、こんちゃん、なしやん、、僕の四人である。五万分の一の地図や奥利根を紹介してある雑誌などを揃えて、研究した。ああでもない、こうでもない、と勝手なことばかり言っているが、話をしていると、夢が広がって実に楽しい時がたつ。
奥利根の奥の沢に行くためには、奥利根湖と言う人工湖を渡らなければならない。そのためにはモ-タ-付きのボ-トが必要。ボ-トはこんちゃんが知り合いからいつも桂川に浮かべてある物を借りることとし、エンジンはやっさんの知り合いから借りることとした。
出発の日に桂川からボ-トを皆でエッチラオッチラ引っ張り上げ、こんちゃんの車(スバル、4WD)の屋根のル-フキャリア-に乗せロ-プ等を用いて固定する。これが木製のボ-トであるもんでとても重い。
ボ-ト用のエンジンもトランクに積み込む。こちら(都留)を早めに出発して現地には翌日の朝早く着こうと計画した。各人の準備も整い、準備万端。奥利根目指して出発である。
高速道路を利用してのドライブで高速道路の入口で係員に、「そんな、重そうな物を屋根の上に積んでいて大丈夫ですか?」と注意を受けるが「大丈夫、大丈夫」と言い切って高速に乗せてもらう。
ボ-トはやはりかなり重い、過負荷だったかも知れない。走っている内に上でミシミシ音がする。大丈夫、大丈夫と言った物の心配である。更に走り続けたが、ついにボ-トを支えている支柱が一本折れてしまった。
ボ-トが今にも崩れて落ちてきそうであり、これ以上走り続けるのは無理。途中で高速を降り、適当な場所に車を止めてボ-トを下ろし、なしやんと僕がボ-トの見張りに残り、こんちゃんとやっさんとで近くの車部品ショップに更に丈夫なル-フキャリア-を買いに行った。
しかし、一時間経っても二時間経っても戻ってこない。梨やんと二人でだんだん心配になって来る。それから三十分位経ってやっと二人が帰って来た。
「いやぁ-、みゃ-った、みゃ-った、なかなか店が見つからなくて、ボ-トをほっぽらかして帰らなきゃならね-かと思った、でもやっとこさで見つかったよ」
待っている二人もほっとした。キャリア-を補強し、ボ-トを積みなおして再出発。更に高速道路を通って、やっとの思いで奥利根湖の畔に着く。この年は雨が少なかったせいか水量が非常に少なく、湖面ははるかに下である。
駐車場に車を入れボ-トを降ろす。この湖を渡った向こう側に、湖に流れ込む沢が何本かあり、そこが我々の目的地である。とにかくボ-トで湖を渡らなければならない。
四人でボ-トとエンジンを担ぎ上げ、エッチラオッチラと水辺まで運ぶ、時間も余り無いので早速ボ-トを水面に浮かべ、エンジンをセットし、スタ-タ-の紐を引っ張る。ブルンブルンと小気味よい音が響き渡り、エンジンが掛かり、回転数が上がる。
「ヤッホ-」いよいよ、夢に見た釣場目掛けて出発だ。各人、釣り竿やら仕掛けやらの道具は積み込んである。準備は万全万端だ。ところが、走りだして、十分もすると、プスンプスンと言ってエンジンが止まってしまった。
ガソリンタンクを開け、ガソリンの残量を調べたり、スパ-クプラグを外してプラグを調べたり、キャブレタ-を調べたりしたがどこにも異常は無い。
「おかしい、来る前に十分テストしてきたんだ。こんなはずは無い」やっさんが呟く。再度、エンジンを掛けると、何の異常もなく走りだす。しかし、又、五分か十分かすると、エンジンが止まってしまう。
どうなっているんだ。再度、エンジンを点検する。その間、少しでも進もうと備え付きのオ-ルを使って、手漕ぎで進もうとするがなかなか進まない。あれやこれややって、エンジンをかけると又掛かる。
しかしすぐ止まってしまう。こんなことを何回か繰り返している内に湖の真ん中近くにきてしまった。このままじゃ、抜き差しならない、弱った!
僕がふっとガソリンタンクの蓋を見てみると、なんと空気抜けの小さな穴が詰まっているでは無いか。
「なんてこった! これじゃタンクの中が減圧になってエンジンも止まる訳だ。おい、みんなエンジン不調の原因が判ったぞ」
蓋の穴に詰まっているゴミを取り除きエンジンを回すと今度は順調そのもの。ボ-トも気持ち良く快調に進んで行く。原因が分かって皆で大笑いしたのは良いが、なんと言う時間の無駄をしてしまったんだ。
それからはエンジンも快調に回転し、対岸目指して進む。対岸の沢の出口近くでボ-トを止め、増水するとまずいということでボ-トを岸よりはるか上まで上げて、ロ-プで木株に縛りつけ、河原に降りる。
ところが川から湖に流れ込む近くは、地盤が柔らかく、ズブズブと足が膝近くまでめり込んでしまう。片足だけなら何とかなるが、これが両足と言う事になると全く身動きが出来なくなってしまう。僕も勇んで河原まで来たは良いが、両足を泥沼に取られてしまい身動きが取れなくなってしまった。
「お-い! たすけてくれ、身動きできね-!」
大声で叫んで、なしやんに引っ張り上げてもらう。こんな所へ一人できたんじゃ偉いことになる。暫く上流に向かって進んで行くと、川の流れも渓流らしくなる。流れの中を見てみると、岩の影、ブッシュの下、淵の中を見ると、ウグイに混じって良型の岩魚が見える。
川を渡ると足元から魚が飛びだす。
「こりゃ、噂どうりの渓流だぜ、もう我慢ならねえ-、ここから釣りはじめるべ-」
異論は無い。いそいそと仕掛けをセットし、釣り始める。ところが思う様になかなか釣れない。見える魚は釣れないと言う話があるが、この話は本当かも知れない。ここまで苦労してきたのに、釣れるのはウグイと小さな岩魚ばかり。たまに二十センチ位の岩魚が出るには出るが、ここまで来て二十センチは無いだろう。
「まいったな、尺以上を期待してきたのにこれじゃしょうがねぇな、もう少しがんばってみるか」
気合を入れなおしてがんばるがなかなか良い型の物は出ない。そうこうしているうちに、にわかに空が暗くなり、雨が降りそうな気配。雨が降ってきて鉄砲水など出たらえらいことになる。「無謀な釣り計画を立て、山梨から来たアホ四名遭難」と新聞にのることになりかねない。
「どうするべぇか? 雨が降りそうだぜ、ここの雨は降りだすとすごいらしいぜ」
「すぐ鉄砲水なども出るらしい」「おいやばいぜ! 川の水かさが増えてきて、濁ってきた」
「すぐひきあげべぇ」
そこは皆慎重な連中で、釣りをやめて早々に引き上げることにした。釣りも大切で後ろ髪引かれる思い。だけど、命の方がもっと大切。ボ-トの置いてある場所に戻ってびっくりした。湖の水量が知らない間に増水していて、あと三十分もすればボ-トが流されるところだった。ずっと上に上げておいて良かった。
皆でボ-トを下ろし慌てて戻った。車を駐車してある近くまで戻って一安心。丁度その頃、雨が本格的に降り始めて来た。ボ-トを車の屋根に上げ、一息入れていると、違う沢に入った連中が我々と同じ様に戻ってきた。
この近くから来た人らしい。釣果を聞いて見ると、かなり大物が出たとのこと。そんな話はにわかに信じがたく、釣った魚を見せて貰うことにした。大型のク-ラ-を覗きこむと、尻尾が手の平くらいある岩魚が数匹、体をくねらして入っているではないか。
我々四人とも、ぐっと息を呑み込み一言も発することが出来なかった。あんなでかい岩魚は後にも先にも見たことが無い。多分、四十から五十センチはあったに違いない。皆でショックを受けて、俯きかげんで帰路についた。
車が走り始めて暫くすると、バケツから水をぶちまける様に、物凄い雨が降ってきた。ワイパ-を高速で回転しても前が見えない位である。雨の一粒の大きさが径1cm位ありそうだ。
更に走っていると、車の屋根でギシギシかと音がする。ボ-トに水が溜まって重たくなってきた様である。俺たちはなんて馬鹿なんだ。馬鹿なことを事をしてしまった、ちょっと考えればこんな事には無らないのに。このままでは、下手すると車が潰されてしまうぜ。
車を止め、びしょびしょになりながら、ボ-トに溜まった水をかきだし、今度は底を上側にして積みなおした。それにしても凄い雨であった。よれよれになりながらも何とか家にたどりついた。こんちゃんの車の屋根はボコボコになり散々な目に会ってしまったが想い出深い釣行であった。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その12
第十二章 「奥利根での釣り」
あれはいつの事だったであろうか、1980年か1981年の頃であると思う。雑誌や新聞によると「奥利根」と言う、利根川の最上流は尺以上の岩魚が入れ食い状態で釣れる所であると評判であった。
釣り仲間の間では、いつか行って見たい所と話が高まっていた。そんなある日、話に聞いている奥利根とやらに一回行って見ようではないかと話がまとまった。季節は、山吹の花がいっぱい咲いていたのを憶えているから、五月の終わり頃ではなかったかと思う。
行くメンバ-は、やっさん、こんちゃん、なしやん、、僕の四人である。五万分の一の地図や奥利根を紹介してある雑誌などを揃えて、研究した。ああでもない、こうでもない、と勝手なことばかり言っているが、話をしていると、夢が広がって実に楽しい時がたつ。
奥利根の奥の沢に行くためには、奥利根湖と言う人工湖を渡らなければならない。そのためにはモ-タ-付きのボ-トが必要。ボ-トはこんちゃんが知り合いからいつも桂川に浮かべてある物を借りることとし、エンジンはやっさんの知り合いから借りることとした。
出発の日に桂川からボ-トを皆でエッチラオッチラ引っ張り上げ、こんちゃんの車(スバル、4WD)の屋根のル-フキャリア-に乗せロ-プ等を用いて固定する。これが木製のボ-トであるもんでとても重い。
ボ-ト用のエンジンもトランクに積み込む。こちら(都留)を早めに出発して現地には翌日の朝早く着こうと計画した。各人の準備も整い、準備万端。奥利根目指して出発である。
高速道路を利用してのドライブで高速道路の入口で係員に、「そんな、重そうな物を屋根の上に積んでいて大丈夫ですか?」と注意を受けるが「大丈夫、大丈夫」と言い切って高速に乗せてもらう。
ボ-トはやはりかなり重い、過負荷だったかも知れない。走っている内に上でミシミシ音がする。大丈夫、大丈夫と言った物の心配である。更に走り続けたが、ついにボ-トを支えている支柱が一本折れてしまった。
ボ-トが今にも崩れて落ちてきそうであり、これ以上走り続けるのは無理。途中で高速を降り、適当な場所に車を止めてボ-トを下ろし、なしやんと僕がボ-トの見張りに残り、こんちゃんとやっさんとで近くの車部品ショップに更に丈夫なル-フキャリア-を買いに行った。
しかし、一時間経っても二時間経っても戻ってこない。梨やんと二人でだんだん心配になって来る。それから三十分位経ってやっと二人が帰って来た。
「いやぁ-、みゃ-った、みゃ-った、なかなか店が見つからなくて、ボ-トをほっぽらかして帰らなきゃならね-かと思った、でもやっとこさで見つかったよ」
待っている二人もほっとした。キャリア-を補強し、ボ-トを積みなおして再出発。更に高速道路を通って、やっとの思いで奥利根湖の畔に着く。この年は雨が少なかったせいか水量が非常に少なく、湖面ははるかに下である。
駐車場に車を入れボ-トを降ろす。この湖を渡った向こう側に、湖に流れ込む沢が何本かあり、そこが我々の目的地である。とにかくボ-トで湖を渡らなければならない。
四人でボ-トとエンジンを担ぎ上げ、エッチラオッチラと水辺まで運ぶ、時間も余り無いので早速ボ-トを水面に浮かべ、エンジンをセットし、スタ-タ-の紐を引っ張る。ブルンブルンと小気味よい音が響き渡り、エンジンが掛かり、回転数が上がる。
「ヤッホ-」いよいよ、夢に見た釣場目掛けて出発だ。各人、釣り竿やら仕掛けやらの道具は積み込んである。準備は万全万端だ。ところが、走りだして、十分もすると、プスンプスンと言ってエンジンが止まってしまった。
ガソリンタンクを開け、ガソリンの残量を調べたり、スパ-クプラグを外してプラグを調べたり、キャブレタ-を調べたりしたがどこにも異常は無い。
「おかしい、来る前に十分テストしてきたんだ。こんなはずは無い」やっさんが呟く。再度、エンジンを掛けると、何の異常もなく走りだす。しかし、又、五分か十分かすると、エンジンが止まってしまう。
どうなっているんだ。再度、エンジンを点検する。その間、少しでも進もうと備え付きのオ-ルを使って、手漕ぎで進もうとするがなかなか進まない。あれやこれややって、エンジンをかけると又掛かる。
しかしすぐ止まってしまう。こんなことを何回か繰り返している内に湖の真ん中近くにきてしまった。このままじゃ、抜き差しならない、弱った!
僕がふっとガソリンタンクの蓋を見てみると、なんと空気抜けの小さな穴が詰まっているでは無いか。
「なんてこった! これじゃタンクの中が減圧になってエンジンも止まる訳だ。おい、みんなエンジン不調の原因が判ったぞ」
蓋の穴に詰まっているゴミを取り除きエンジンを回すと今度は順調そのもの。ボ-トも気持ち良く快調に進んで行く。原因が分かって皆で大笑いしたのは良いが、なんと言う時間の無駄をしてしまったんだ。
それからはエンジンも快調に回転し、対岸目指して進む。対岸の沢の出口近くでボ-トを止め、増水するとまずいということでボ-トを岸よりはるか上まで上げて、ロ-プで木株に縛りつけ、河原に降りる。
ところが川から湖に流れ込む近くは、地盤が柔らかく、ズブズブと足が膝近くまでめり込んでしまう。片足だけなら何とかなるが、これが両足と言う事になると全く身動きが出来なくなってしまう。僕も勇んで河原まで来たは良いが、両足を泥沼に取られてしまい身動きが取れなくなってしまった。
「お-い! たすけてくれ、身動きできね-!」
大声で叫んで、なしやんに引っ張り上げてもらう。こんな所へ一人できたんじゃ偉いことになる。暫く上流に向かって進んで行くと、川の流れも渓流らしくなる。流れの中を見てみると、岩の影、ブッシュの下、淵の中を見ると、ウグイに混じって良型の岩魚が見える。
川を渡ると足元から魚が飛びだす。
「こりゃ、噂どうりの渓流だぜ、もう我慢ならねえ-、ここから釣りはじめるべ-」
異論は無い。いそいそと仕掛けをセットし、釣り始める。ところが思う様になかなか釣れない。見える魚は釣れないと言う話があるが、この話は本当かも知れない。ここまで苦労してきたのに、釣れるのはウグイと小さな岩魚ばかり。たまに二十センチ位の岩魚が出るには出るが、ここまで来て二十センチは無いだろう。
「まいったな、尺以上を期待してきたのにこれじゃしょうがねぇな、もう少しがんばってみるか」
気合を入れなおしてがんばるがなかなか良い型の物は出ない。そうこうしているうちに、にわかに空が暗くなり、雨が降りそうな気配。雨が降ってきて鉄砲水など出たらえらいことになる。「無謀な釣り計画を立て、山梨から来たアホ四名遭難」と新聞にのることになりかねない。
「どうするべぇか? 雨が降りそうだぜ、ここの雨は降りだすとすごいらしいぜ」
「すぐ鉄砲水なども出るらしい」「おいやばいぜ! 川の水かさが増えてきて、濁ってきた」
「すぐひきあげべぇ」
そこは皆慎重な連中で、釣りをやめて早々に引き上げることにした。釣りも大切で後ろ髪引かれる思い。だけど、命の方がもっと大切。ボ-トの置いてある場所に戻ってびっくりした。湖の水量が知らない間に増水していて、あと三十分もすればボ-トが流されるところだった。ずっと上に上げておいて良かった。
皆でボ-トを下ろし慌てて戻った。車を駐車してある近くまで戻って一安心。丁度その頃、雨が本格的に降り始めて来た。ボ-トを車の屋根に上げ、一息入れていると、違う沢に入った連中が我々と同じ様に戻ってきた。
この近くから来た人らしい。釣果を聞いて見ると、かなり大物が出たとのこと。そんな話はにわかに信じがたく、釣った魚を見せて貰うことにした。大型のク-ラ-を覗きこむと、尻尾が手の平くらいある岩魚が数匹、体をくねらして入っているではないか。
我々四人とも、ぐっと息を呑み込み一言も発することが出来なかった。あんなでかい岩魚は後にも先にも見たことが無い。多分、四十から五十センチはあったに違いない。皆でショックを受けて、俯きかげんで帰路についた。
車が走り始めて暫くすると、バケツから水をぶちまける様に、物凄い雨が降ってきた。ワイパ-を高速で回転しても前が見えない位である。雨の一粒の大きさが径1cm位ありそうだ。
更に走っていると、車の屋根でギシギシかと音がする。ボ-トに水が溜まって重たくなってきた様である。俺たちはなんて馬鹿なんだ。馬鹿なことを事をしてしまった、ちょっと考えればこんな事には無らないのに。このままでは、下手すると車が潰されてしまうぜ。
車を止め、びしょびしょになりながら、ボ-トに溜まった水をかきだし、今度は底を上側にして積みなおした。それにしても凄い雨であった。よれよれになりながらも何とか家にたどりついた。こんちゃんの車の屋根はボコボコになり散々な目に会ってしまったが想い出深い釣行であった。
〔山男魚〕
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2000年01月12日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 11」
95/10/21 22:02
「鶴見川からモントレ-へ」釣りによって出会った情景と人々 その11
第十一章 「岐阜県可児市の家、飛騨川水系 赤川」
昭和57年(1982)のことと思うが、ロ-ンを組んで、岐阜県可児市桜ケ丘という所に建売住宅を購入した。妻の正恵が熱心に調べ、家を買うなら今が良いとしきりに勧める。
いずれか、僕も名古屋近郊の勤めになるであろうし、この時、37才、40前には自分の家を持つことを一つの目標にしていたし、将来的に財産と言う意味で土地付きの家を持つのも悪くないと考えた。
場所、環境、交通の便、価格、広さ、間取り、その他の条件は全て正恵にまかせた。本社なり工場なりに通勤できる圏内であることは当然として、但、ひとつだけ条件を付けた。
それは「一時間以内で釣場へ行けること」それ以外の事は全て任せて、決まったのが可児市の家である。住みごこちも悪く無さそうであるし、ここは長良川水系、飛騨川水系、木曽川水系等、アマゴ、鮎の有名な釣場に一時間も走れば行ける。文句は無い。
但し、もう十数年経つのに、今までこの家に住んだのは、女房、子供達が約二年半、僕が半年でずっと空き家になっている。隣が女房のおふくろさんに家になっており、ときたま風通し等してもらっているが、何とも早、勿体ない話である。なかなかままならぬのがサラリ-マンの身の振り方。
早く自分の家に住んで、勝手気儘に植木など植えたいし、壁にクギなんか打ちつけたい。壁に絵をいっぱい飾ったり、棚なんかも吊りたいと思う。又ある家に預かって貰っている愛犬のナッキ-も連れ戻したいが借家ではどうにもならない。まあ、いずれ住める様になる時がくるであろう。
さて、昭和61年(1986)の5月3日、この時、僕はひとりで山梨に単身赴任していた。家族は可児の家に住んでおり、5月の連休に可児に帰って来た時の事。「フィッシュオン」という釣りの雑誌に飛騨川水系の赤川が、鮎も良いが、アマゴも良い穴場と書いてあり、地図で調べて見ると、ここから車で一時間以内でいける事がわかり、早速、釣行することにした。
前の日に、近くの釣り具屋で、エサのミミズを買い、朝の四時頃に起きて出発。国道41号線を北上し、白河の交差点を右に曲がって、三井村に入り、赤川に至る。ここは、穏やかな田園地帯で、狭い道路を車ですれ違う時も、とても礼儀正しく、名古屋地区からちょっと離れただけで、こうも変わるものかと、びっくりする。
皆、こうありたいものである。広場に車を止めて、釣りの準備をし、しばらく下流の方に歩いて、川に降りる細い道から河原におりる。渓は、落差の比較的少ない、平坦な流れで、鮎の渓相である。適当なポイントから釣り始める。雑誌の記事によると、良型のアマゴが数釣れるとある。
期待を持って釣り始めるが、なかなかアタリはない。ある絶好のポイントに、そっと投げ込む、目印がすうっ-と流れて行き、ふっと、揺れる。アタリだ。瞬時に合わせ、釣り上げる。
やっと釣れた。良かった。ところが良く見てみると、それはアマゴではなく、ヤマベ(山女魚では無くオイカワの事)のでかい奴。がっかりした。それから、次から次に釣れるのはヤマベばかり。
「雑誌に書いている人は、ヤマベとアマゴを間違えたんじゃねえか。人を馬鹿にしやがって。こちとら、遠くから来てるんだ。何とかしろ!」
一人、大きな声で呟く。と言っても、釣りなんてものは、そううまく行く訳はない。
「この自然の雰囲気を楽しめば、それでいいじゃね-か、見ろよ、あの花、綺麗じゃね-か」
自分自信に言い聞かせ、ヤマベを釣っては、放流し、ヤマベを釣っては、放流する。こんな事を一時間以上続けていたであろうか。今度は障害物のある様な、狭いポイントを攻めて見ようと思い、小さな落ち込みに材木の破片が落ちている様な所を狙って見た。
落ち込みの上から、エサが流れる様に投げ込み、目印がドンドンに落ち込んで、更に、流れの早い、浅瀬に流れて行く。目印が一瞬止まる。合わせる。「やった」25センチのアマゴ。綺麗なアマゴだ。考えて見ると、今まで比較的流れの緩やかな、淵やとろ場を中心に攻めていた事に気が付いた。
今は山吹きの黄色い花も真っ盛りの春、アマゴは瀬に出ている。それからは、なるべく流れの早い瀬を中心に攻めて行った。するとどうだろう、良型のアマゴが次々と当たって来る。渓流と言うのは、渓流魚と言うのは不思議なものだ。
更に、二時間位釣りをし、12~13匹釣って、ご機嫌で帰って来た。その後、何回か、ここには釣りに行ったが比較的良い成績を残している。
ここは釣りも良いが、人々も温和で道ですれ違っても、挨拶はしてくれるし、釣りの状況やら、道やら親切に教えてくれる。何かと殺伐とした世界に住んでいる僕にとっては、本来の人間の姿を見た様に思え、ほのぼのとした思いが体に満ち溢れ、とてもうれしくなってしまった。
そういう事もあり、ここには良く釣行することになった。坊主になることもしばしばあったが、比較的気分の良い釣りをすることができた。
その後、鮎釣りを覚え、ここに入り浸りになることになる。
やまべ(オイカワ)と言う魚は、この辺には多く生息しており、時に20cm近くあるものもおり、ビクリとさせられることもある。一回食べてみようと思い、何匹か持ちかえって、塩焼き、唐揚げ、煮付けなどにしてみたが、あまり美味しくない。何か旨い食べ方は無いものだろうか?
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」釣りによって出会った情景と人々 その11
第十一章 「岐阜県可児市の家、飛騨川水系 赤川」
昭和57年(1982)のことと思うが、ロ-ンを組んで、岐阜県可児市桜ケ丘という所に建売住宅を購入した。妻の正恵が熱心に調べ、家を買うなら今が良いとしきりに勧める。
いずれか、僕も名古屋近郊の勤めになるであろうし、この時、37才、40前には自分の家を持つことを一つの目標にしていたし、将来的に財産と言う意味で土地付きの家を持つのも悪くないと考えた。
場所、環境、交通の便、価格、広さ、間取り、その他の条件は全て正恵にまかせた。本社なり工場なりに通勤できる圏内であることは当然として、但、ひとつだけ条件を付けた。
それは「一時間以内で釣場へ行けること」それ以外の事は全て任せて、決まったのが可児市の家である。住みごこちも悪く無さそうであるし、ここは長良川水系、飛騨川水系、木曽川水系等、アマゴ、鮎の有名な釣場に一時間も走れば行ける。文句は無い。
但し、もう十数年経つのに、今までこの家に住んだのは、女房、子供達が約二年半、僕が半年でずっと空き家になっている。隣が女房のおふくろさんに家になっており、ときたま風通し等してもらっているが、何とも早、勿体ない話である。なかなかままならぬのがサラリ-マンの身の振り方。
早く自分の家に住んで、勝手気儘に植木など植えたいし、壁にクギなんか打ちつけたい。壁に絵をいっぱい飾ったり、棚なんかも吊りたいと思う。又ある家に預かって貰っている愛犬のナッキ-も連れ戻したいが借家ではどうにもならない。まあ、いずれ住める様になる時がくるであろう。
さて、昭和61年(1986)の5月3日、この時、僕はひとりで山梨に単身赴任していた。家族は可児の家に住んでおり、5月の連休に可児に帰って来た時の事。「フィッシュオン」という釣りの雑誌に飛騨川水系の赤川が、鮎も良いが、アマゴも良い穴場と書いてあり、地図で調べて見ると、ここから車で一時間以内でいける事がわかり、早速、釣行することにした。
前の日に、近くの釣り具屋で、エサのミミズを買い、朝の四時頃に起きて出発。国道41号線を北上し、白河の交差点を右に曲がって、三井村に入り、赤川に至る。ここは、穏やかな田園地帯で、狭い道路を車ですれ違う時も、とても礼儀正しく、名古屋地区からちょっと離れただけで、こうも変わるものかと、びっくりする。
皆、こうありたいものである。広場に車を止めて、釣りの準備をし、しばらく下流の方に歩いて、川に降りる細い道から河原におりる。渓は、落差の比較的少ない、平坦な流れで、鮎の渓相である。適当なポイントから釣り始める。雑誌の記事によると、良型のアマゴが数釣れるとある。
期待を持って釣り始めるが、なかなかアタリはない。ある絶好のポイントに、そっと投げ込む、目印がすうっ-と流れて行き、ふっと、揺れる。アタリだ。瞬時に合わせ、釣り上げる。
やっと釣れた。良かった。ところが良く見てみると、それはアマゴではなく、ヤマベ(山女魚では無くオイカワの事)のでかい奴。がっかりした。それから、次から次に釣れるのはヤマベばかり。
「雑誌に書いている人は、ヤマベとアマゴを間違えたんじゃねえか。人を馬鹿にしやがって。こちとら、遠くから来てるんだ。何とかしろ!」
一人、大きな声で呟く。と言っても、釣りなんてものは、そううまく行く訳はない。
「この自然の雰囲気を楽しめば、それでいいじゃね-か、見ろよ、あの花、綺麗じゃね-か」
自分自信に言い聞かせ、ヤマベを釣っては、放流し、ヤマベを釣っては、放流する。こんな事を一時間以上続けていたであろうか。今度は障害物のある様な、狭いポイントを攻めて見ようと思い、小さな落ち込みに材木の破片が落ちている様な所を狙って見た。
落ち込みの上から、エサが流れる様に投げ込み、目印がドンドンに落ち込んで、更に、流れの早い、浅瀬に流れて行く。目印が一瞬止まる。合わせる。「やった」25センチのアマゴ。綺麗なアマゴだ。考えて見ると、今まで比較的流れの緩やかな、淵やとろ場を中心に攻めていた事に気が付いた。
今は山吹きの黄色い花も真っ盛りの春、アマゴは瀬に出ている。それからは、なるべく流れの早い瀬を中心に攻めて行った。するとどうだろう、良型のアマゴが次々と当たって来る。渓流と言うのは、渓流魚と言うのは不思議なものだ。
更に、二時間位釣りをし、12~13匹釣って、ご機嫌で帰って来た。その後、何回か、ここには釣りに行ったが比較的良い成績を残している。
ここは釣りも良いが、人々も温和で道ですれ違っても、挨拶はしてくれるし、釣りの状況やら、道やら親切に教えてくれる。何かと殺伐とした世界に住んでいる僕にとっては、本来の人間の姿を見た様に思え、ほのぼのとした思いが体に満ち溢れ、とてもうれしくなってしまった。
そういう事もあり、ここには良く釣行することになった。坊主になることもしばしばあったが、比較的気分の良い釣りをすることができた。
その後、鮎釣りを覚え、ここに入り浸りになることになる。
やまべ(オイカワ)と言う魚は、この辺には多く生息しており、時に20cm近くあるものもおり、ビクリとさせられることもある。一回食べてみようと思い、何匹か持ちかえって、塩焼き、唐揚げ、煮付けなどにしてみたが、あまり美味しくない。何か旨い食べ方は無いものだろうか?
〔山男魚〕
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2000年01月11日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 10」
95/10/19 22:44
「鶴見川からモントレ-へ」釣りによって出会った情景と人々 その10
第十章 「マムシがウナギに化けた話」
こんちゃんで思い出すのは「マムシの話」 それは昭和52年(1977)か昭和53年(1978)の夏、当時、僕が設計し、力さんが試作すると言う職務で同じ職場にいた。この頃、良く会社が始まる前とか、会社が終わってから、釣りに行ったものである。
この日も会社が終わってから一緒に釣りに行こうとになり、それぞれ車で管野川へ出掛けて行った。管野川中域の道路脇に車を駐めて落合い、上流と下流に別れて釣りを始めた。力さんは上流に、僕が下流へと向かった。
仕掛けを作り、糸を竿に結んで、いざ釣りをしようとして、ふと石垣の横の葛の葉の上に目をやると、そこには大きなマムシがトグロを巻いて座っているではないか。あの身の毛のよだつ様な銭形模様、もともと蛇は苦手。このマムシを見たとたん、全身が硬直し身動きが取れない様な状態になってしまった。
派手に動けば飛び掛かって来る様にも思え、野性のマムシを見たのは始めてなので、好奇心でもっと観察したいとも思え、何とも言えない気持ちであった。しかし、もう釣りどころではない。
「オ-イ!!こんちゃん、大変だ、マムシだ。オォ-イ、こん、マムシだぞぅ」マムシを横目で睨みつつ大声で、上流に姿の見える力さんに声を掛けるが、渓流の水の流れる音に消されて、声が届かず力さんはどんどん遠ざかって行く。
その場をそっと離れてしばらく釣りをしたが、釣りに集中できる訳が無くそうそうに切り上げて、マムシの居た場所に戻ると、野郎、まだトグロを巻いて葛の葉の上でじっとしている。
こんはまだ戻らない。そこから少し離れた所に座り込んで、マムシを見ながらこんの帰って来るのを待った。一時間程待ったであろうか、やっと向こうからこんが川を渡って来るのが見える。---
「やもさん、釣れたかい、上の方じゃかなり当たりがあって、良い型のがでたよ」
「-----」
「どうかしたかい、やもさん、顔色が良くないぜ、アタリが無かったずら!」
「おい、それ所じゃないぜ、あすこを見てみろ」
「ありゃぁ、マムシじゃないか、でかいな、おりゃぁこんなでかいの見たことないぜ」
「どうするか、とっつかまえてマムシ酒でも作るか、人の話じゃ、大きなマムシは一本2万円位するらしいぜ、これだけ大きいのであれば、相当の価値があるぜ」
「だけど、どうやって捕まえる? 俺ぁ、素手で捕まえる度胸は無いぜ、蛇なんかこわかないけどマムシは別だよ、噛まれてあの世へ行くのはやだからな」
「待て、良い考えがある。釣り竿と紐を使って、捕る仕掛けを作ろう」
僕の車の置いてある所へ二人で取って返し、たまたま僕の車のトランクに入っていた、海用の投げ竿と細身のロ-プで輪を作り、ロ-プの端を引っ張ると輪が締まるようにしたマムシ取りの仕掛けを作った。
この仕掛けを持って、マムシのいる所へ戻った。マムシはまだトグロを巻いている。二人で顔を見合せ、こんがロ-プの輪を奴の頭に持っていって輪に入れようとするが、なかなか頭を上げないので、輪の中に入らない。僕が釣り竿の先で奴の頭をそっとたたいて、鎌首を上げさせようと言う事になり、竿の先で何回か叩くとぐっと鎌首を上げた。
一瞬、飛び掛かってくるのではないかと、ビクッとしたが、
「それ行け、今だ、首を輪に入れろ」
「よし、今だ」 「・・・ 。。。。・・・」
マムシの鎌首が輪に入ったとたん、手前の細引きを引き締め上げる。--
「やったか?」--------
「やった、やった、とっ捕まえた」
マムシも葉の下あたりに隠れていれば良かったのに、マムシにとっては不幸であった。捕らえたマムシを締め上げたまま、ビニ-ルの大きな袋に入れて、会社の食堂に持って帰った。
早速、おっちゃんに電話し、どうしたら良いか尋ねる。
「マムシを一升ビンに入れて、水を少し、下から五センチ位いれ、ビンの口から棒切れを入れてマムシが逃げない様にして、二、三日そのままにして、何回か水を入れ換えて汚物を吐きださせ、がきれいになったところで水を捨てて、焼酎を入れれば、りっぱな、マムシ酒が出来るぜ、今そっちへ行くから、一升びんを探してマムシを入れておけ」マムシ酒の作り方の講釈が始まる。
たまたま、食堂にはやっさん、てっちゃん、なしやん、他、何人か居り、近くで一升ビンを探して来て、これをきれいに洗い、こんとやっさんとで、頭からビンの中に入れようとするが、なかなか入らない。
喰いつかれたらえらいことになるので、やっている本人も周りで見ている連中もビクビクしている。やっとの思いで半分位入ったところで、マムシが突然、飛び上がってビンから飛びだした。
本人達も周りで見てた野次馬連中もわっと声を上げて飛び下がった。マムシがどこかに逃げてしまった。えらい事になってしまった。ここは大勢の人が集まる食堂だ。どこかに隠れて居なくなったらどうしよう。
皆で必死になって探すがなかなか見つからない。そうこうしている内に、流しの下の隅に居るところを発見し、ひと安心、もう一度、細引きの仕掛けを出して、捕まえた。
そうこうしている内、おっちゃんが顔をみせ、「こん、頭から入れる奴がいるか、途中から飛びだすに決まっているじゃね-か、尻尾の方から入れなきゃだめだ、俺の言う通りとやってみろ、さあ、尻尾から入れて、そうそうマムシの胴をいいこいいこする様にさすって、優しく撫でて」
不思議や、不思議。マムシはするするとビンの中へ入って行く。流石、おっちゃん、こう言うことは良く知っている。頭が入ったところで、棒を差し込み、一安心。マムシはビンの中でおとなしくしている。さて、マムシはおとなしくビンの中に納まったものの、これをどうしようと言うことになった。
「これだけのマムシなら二万円か三万円で売れるべぇ」と言うことで、たまたま、やっさんの友達で「鰻屋、・・」と言う料理屋を経営しているご主人に電話で話したところ、買ってくれると言う。この人も相当に物好きな人である。
「やっさんの友達に余り高く売っても何だから」と皆でうじうじしていたところ、
「それじゃ、私が皆さんにうな重を奢りましょう」と言う「・・」の主人の言葉で商談が成立。会社の食堂でやじうましてた女の娘も含めて、十人余りで会社近くにある「・・」へ行き、腹一杯「うな重」を御馳走になった。
マムシはウナギに化けて皆の腹の中に納まった。これも釣りのおかげと皆で大笑いしたが、マムシには可哀相なことをしてしまった。その後、マムシは、マムシ酒になって、成仏したであろうと念じるのみである。この次、マムシにあったら、そっとして置いてあげよう。
・・・・・・・・・
渓流をやっている皆さんも、渓でマムシを始めとする蛇類に出会っていると思うが、僕は本当に蛇が苦手。山道を歩いていて、蛇に行く手を阻まれて釣りをやめて帰ったり、渓流脇の石垣で前後を大きなヤマカガシに囲まれて身動き出来なくなったのもしばしば。
おっちゃんの様に蛇が出てくれば、とっつかまえて、蒲焼にして食ってしまう輩の前にはなかなか現れないのに、何でオレは良く出会うんだろう。
誰か蛇避けのオマジナイか、蛇よけの匂い袋か、良い方法があったら教えて
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」釣りによって出会った情景と人々 その10
第十章 「マムシがウナギに化けた話」
こんちゃんで思い出すのは「マムシの話」 それは昭和52年(1977)か昭和53年(1978)の夏、当時、僕が設計し、力さんが試作すると言う職務で同じ職場にいた。この頃、良く会社が始まる前とか、会社が終わってから、釣りに行ったものである。
この日も会社が終わってから一緒に釣りに行こうとになり、それぞれ車で管野川へ出掛けて行った。管野川中域の道路脇に車を駐めて落合い、上流と下流に別れて釣りを始めた。力さんは上流に、僕が下流へと向かった。
仕掛けを作り、糸を竿に結んで、いざ釣りをしようとして、ふと石垣の横の葛の葉の上に目をやると、そこには大きなマムシがトグロを巻いて座っているではないか。あの身の毛のよだつ様な銭形模様、もともと蛇は苦手。このマムシを見たとたん、全身が硬直し身動きが取れない様な状態になってしまった。
派手に動けば飛び掛かって来る様にも思え、野性のマムシを見たのは始めてなので、好奇心でもっと観察したいとも思え、何とも言えない気持ちであった。しかし、もう釣りどころではない。
「オ-イ!!こんちゃん、大変だ、マムシだ。オォ-イ、こん、マムシだぞぅ」マムシを横目で睨みつつ大声で、上流に姿の見える力さんに声を掛けるが、渓流の水の流れる音に消されて、声が届かず力さんはどんどん遠ざかって行く。
その場をそっと離れてしばらく釣りをしたが、釣りに集中できる訳が無くそうそうに切り上げて、マムシの居た場所に戻ると、野郎、まだトグロを巻いて葛の葉の上でじっとしている。
こんはまだ戻らない。そこから少し離れた所に座り込んで、マムシを見ながらこんの帰って来るのを待った。一時間程待ったであろうか、やっと向こうからこんが川を渡って来るのが見える。---
「やもさん、釣れたかい、上の方じゃかなり当たりがあって、良い型のがでたよ」
「-----」
「どうかしたかい、やもさん、顔色が良くないぜ、アタリが無かったずら!」
「おい、それ所じゃないぜ、あすこを見てみろ」
「ありゃぁ、マムシじゃないか、でかいな、おりゃぁこんなでかいの見たことないぜ」
「どうするか、とっつかまえてマムシ酒でも作るか、人の話じゃ、大きなマムシは一本2万円位するらしいぜ、これだけ大きいのであれば、相当の価値があるぜ」
「だけど、どうやって捕まえる? 俺ぁ、素手で捕まえる度胸は無いぜ、蛇なんかこわかないけどマムシは別だよ、噛まれてあの世へ行くのはやだからな」
「待て、良い考えがある。釣り竿と紐を使って、捕る仕掛けを作ろう」
僕の車の置いてある所へ二人で取って返し、たまたま僕の車のトランクに入っていた、海用の投げ竿と細身のロ-プで輪を作り、ロ-プの端を引っ張ると輪が締まるようにしたマムシ取りの仕掛けを作った。
この仕掛けを持って、マムシのいる所へ戻った。マムシはまだトグロを巻いている。二人で顔を見合せ、こんがロ-プの輪を奴の頭に持っていって輪に入れようとするが、なかなか頭を上げないので、輪の中に入らない。僕が釣り竿の先で奴の頭をそっとたたいて、鎌首を上げさせようと言う事になり、竿の先で何回か叩くとぐっと鎌首を上げた。
一瞬、飛び掛かってくるのではないかと、ビクッとしたが、
「それ行け、今だ、首を輪に入れろ」
「よし、今だ」 「・・・ 。。。。・・・」
マムシの鎌首が輪に入ったとたん、手前の細引きを引き締め上げる。--
「やったか?」--------
「やった、やった、とっ捕まえた」
マムシも葉の下あたりに隠れていれば良かったのに、マムシにとっては不幸であった。捕らえたマムシを締め上げたまま、ビニ-ルの大きな袋に入れて、会社の食堂に持って帰った。
早速、おっちゃんに電話し、どうしたら良いか尋ねる。
「マムシを一升ビンに入れて、水を少し、下から五センチ位いれ、ビンの口から棒切れを入れてマムシが逃げない様にして、二、三日そのままにして、何回か水を入れ換えて汚物を吐きださせ、がきれいになったところで水を捨てて、焼酎を入れれば、りっぱな、マムシ酒が出来るぜ、今そっちへ行くから、一升びんを探してマムシを入れておけ」マムシ酒の作り方の講釈が始まる。
たまたま、食堂にはやっさん、てっちゃん、なしやん、他、何人か居り、近くで一升ビンを探して来て、これをきれいに洗い、こんとやっさんとで、頭からビンの中に入れようとするが、なかなか入らない。
喰いつかれたらえらいことになるので、やっている本人も周りで見ている連中もビクビクしている。やっとの思いで半分位入ったところで、マムシが突然、飛び上がってビンから飛びだした。
本人達も周りで見てた野次馬連中もわっと声を上げて飛び下がった。マムシがどこかに逃げてしまった。えらい事になってしまった。ここは大勢の人が集まる食堂だ。どこかに隠れて居なくなったらどうしよう。
皆で必死になって探すがなかなか見つからない。そうこうしている内に、流しの下の隅に居るところを発見し、ひと安心、もう一度、細引きの仕掛けを出して、捕まえた。
そうこうしている内、おっちゃんが顔をみせ、「こん、頭から入れる奴がいるか、途中から飛びだすに決まっているじゃね-か、尻尾の方から入れなきゃだめだ、俺の言う通りとやってみろ、さあ、尻尾から入れて、そうそうマムシの胴をいいこいいこする様にさすって、優しく撫でて」
不思議や、不思議。マムシはするするとビンの中へ入って行く。流石、おっちゃん、こう言うことは良く知っている。頭が入ったところで、棒を差し込み、一安心。マムシはビンの中でおとなしくしている。さて、マムシはおとなしくビンの中に納まったものの、これをどうしようと言うことになった。
「これだけのマムシなら二万円か三万円で売れるべぇ」と言うことで、たまたま、やっさんの友達で「鰻屋、・・」と言う料理屋を経営しているご主人に電話で話したところ、買ってくれると言う。この人も相当に物好きな人である。
「やっさんの友達に余り高く売っても何だから」と皆でうじうじしていたところ、
「それじゃ、私が皆さんにうな重を奢りましょう」と言う「・・」の主人の言葉で商談が成立。会社の食堂でやじうましてた女の娘も含めて、十人余りで会社近くにある「・・」へ行き、腹一杯「うな重」を御馳走になった。
マムシはウナギに化けて皆の腹の中に納まった。これも釣りのおかげと皆で大笑いしたが、マムシには可哀相なことをしてしまった。その後、マムシは、マムシ酒になって、成仏したであろうと念じるのみである。この次、マムシにあったら、そっとして置いてあげよう。
・・・・・・・・・
渓流をやっている皆さんも、渓でマムシを始めとする蛇類に出会っていると思うが、僕は本当に蛇が苦手。山道を歩いていて、蛇に行く手を阻まれて釣りをやめて帰ったり、渓流脇の石垣で前後を大きなヤマカガシに囲まれて身動き出来なくなったのもしばしば。
おっちゃんの様に蛇が出てくれば、とっつかまえて、蒲焼にして食ってしまう輩の前にはなかなか現れないのに、何でオレは良く出会うんだろう。
誰か蛇避けのオマジナイか、蛇よけの匂い袋か、良い方法があったら教えて
〔山男魚〕
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21:04
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2000年01月10日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 9」
95/10/18 22:02
「鶴見川からモントレ-へ」釣りによって出会った情景と人々 その9
第九章 「長野県 三峰川にて」
それはいつの頃であったか正確には思い出せないが、昭和60年(1985)頃の春だったと思う。妻と子供が実家に帰った五月の連休だったと思う。当時、都留市の団地に住んでいた。
ひとりで何をしようかと考えているところに、こんちゃんが我が家に訪れ、色々、話をしている内に何処かへ釣りに行こうという話がまとまり、釣りの雑誌、新聞等であれこれ場所を選定した結果、長野県の三峰川へ行こうと言う事になった。
その日の夕方六時頃、出発し、中央道を通って、夜中の二時頃、三峰川の入口に着いた。三峰川沿いの林道にはゲ-トがあって、それ以上は車では入れないので、そこからは歩き。懐中電灯の灯を頼りにトコトコ、トコトコ歩く事、四~五時間、七時頃から釣り始めた。
確か、本に書いてあった穴場と言うのはもっともっと上流の方であるが、歩くのも嫌になったし、早く釣りはしたいし前に流れている流れは、これ又笹濁りで流れの状態は良さそうだし。
「歩き疲れたな、おい、この辺から始めるべ-か?」
「そうよなぁ、流れの具合も良さそうだし、そろそろやるべ-」
かなり下流ではあるがここから始めようと言う事になった。-- もっと上流まで歩いてから始めようと言う考えもあったが、結果的にはこれが良かった。こんちゃんが対岸に渡り、僕がこちら側で釣り始めた。
始めたとたん、鋭いアタリ、入れ喰いである。すぐ力さんが28cm位の岩魚を釣り、引き続いて僕が同じ位のサイズの物を釣りあげ、もう夢中。こんちゃんがポイントを移動するぞ、との声で、糸を流れに入れたまま移動したところ、竿先にアタリがあり25cm位の岩魚が釣れる始末である。
二~三時間の内に、魚籠が一杯になってしまった。恐らく、20匹近くは釣っていたであろう。魚籠が重くて重くて叶わない。昼を過ぎて二時頃になってもアタリは止まらない。
「おい、こりゃどうなってんだ、こんなの始めてだぜ、よっぽど運が良いんだぜこりゃ」
「俺も長年釣りをやってるけど、こんなに釣れるのは始めてだぜ、全く信じられないよ」
「俺たちの普段の行いが良いんだな」
「ところでよう、魚籠は重いし、腹はへったし、そろそろニギリでも喰いながら一服しようぜ」
河原でオニギリを食べて、一服し、とにかく魚籠が重くてしょうがないので、どうにかしようと言うことになり、釣った岩魚の腹を割いて、河原の流れの近くに穴を掘り、ビニ-ルの袋に入れて、目印をして更に釣り登った。
更に、これでも、更に釣れる、ポイント、ポイントでアタリがあり、良い型の岩魚が釣れ上がってくる。夕方、あたりが薄暗くなるまで、七時頃まで釣り続け、更に魚籠一杯。
魚籠が重くて肩が痛い。疲れも全く感じず、良くもまあ、夢中になって釣り続けたものである。これも腹を割いて、ビニ-ルの袋に入れ、林道を歩いて帰路に着く。
途中、河原に埋めて置いた岩魚を取り出す。それから車の置いてある場所まで歩く。なにせ、ずっとバカ長靴で歩いてきたものだから歩きにくくてしようがないが足取りは軽い。こんなに釣れたのは、後にも先にも始めてであろう。
魚籠二杯、約40匹、しかも皆、25~30cmの良型ばかり。ゆっくりした足取りで歩いていると、相当上流に入った人に追い抜かされたが、その人に聞いて見ると、上流の方ではほとんど出なかったとの事。
やはり下流の方で正解であった。駐車場にやっとの思いで辿り着き、近くにあった、板取の太い幹を切って、これをグラス代わりにして飲んだウイスキ-の旨かったこと。板取も節と節の間には水が溜まっていて、丁度良い水割りになった。多少青臭くて、何とも言えない、自然の味と言ったら良いか、渓の味と言ったら良いか、素晴らしい味であった。
---それから約一年後、夢よもう一度とばかり、こんちゃん、ゴリラ、僕の三人で車にオ-トバイを積んで釣行したが、アタリが全然なく、やっとの思いで僕が一匹釣っただけであった。結局、釣りを止めて、山ウド、蕗、等の山菜を一杯取って帰ってきた。渓流はこれだから解らない。
天候とか、水温とか、水量とかが影響するものと思うが、柳の下にドジョウが二匹、やはり居なかった。但、この時、釣れなかったけど、楽しそうだったゴリラの顔が目に浮かぶ。------
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」釣りによって出会った情景と人々 その9
第九章 「長野県 三峰川にて」
それはいつの頃であったか正確には思い出せないが、昭和60年(1985)頃の春だったと思う。妻と子供が実家に帰った五月の連休だったと思う。当時、都留市の団地に住んでいた。
ひとりで何をしようかと考えているところに、こんちゃんが我が家に訪れ、色々、話をしている内に何処かへ釣りに行こうという話がまとまり、釣りの雑誌、新聞等であれこれ場所を選定した結果、長野県の三峰川へ行こうと言う事になった。
その日の夕方六時頃、出発し、中央道を通って、夜中の二時頃、三峰川の入口に着いた。三峰川沿いの林道にはゲ-トがあって、それ以上は車では入れないので、そこからは歩き。懐中電灯の灯を頼りにトコトコ、トコトコ歩く事、四~五時間、七時頃から釣り始めた。
確か、本に書いてあった穴場と言うのはもっともっと上流の方であるが、歩くのも嫌になったし、早く釣りはしたいし前に流れている流れは、これ又笹濁りで流れの状態は良さそうだし。
「歩き疲れたな、おい、この辺から始めるべ-か?」
「そうよなぁ、流れの具合も良さそうだし、そろそろやるべ-」
かなり下流ではあるがここから始めようと言う事になった。-- もっと上流まで歩いてから始めようと言う考えもあったが、結果的にはこれが良かった。こんちゃんが対岸に渡り、僕がこちら側で釣り始めた。
始めたとたん、鋭いアタリ、入れ喰いである。すぐ力さんが28cm位の岩魚を釣り、引き続いて僕が同じ位のサイズの物を釣りあげ、もう夢中。こんちゃんがポイントを移動するぞ、との声で、糸を流れに入れたまま移動したところ、竿先にアタリがあり25cm位の岩魚が釣れる始末である。
二~三時間の内に、魚籠が一杯になってしまった。恐らく、20匹近くは釣っていたであろう。魚籠が重くて重くて叶わない。昼を過ぎて二時頃になってもアタリは止まらない。
「おい、こりゃどうなってんだ、こんなの始めてだぜ、よっぽど運が良いんだぜこりゃ」
「俺も長年釣りをやってるけど、こんなに釣れるのは始めてだぜ、全く信じられないよ」
「俺たちの普段の行いが良いんだな」
「ところでよう、魚籠は重いし、腹はへったし、そろそろニギリでも喰いながら一服しようぜ」
河原でオニギリを食べて、一服し、とにかく魚籠が重くてしょうがないので、どうにかしようと言うことになり、釣った岩魚の腹を割いて、河原の流れの近くに穴を掘り、ビニ-ルの袋に入れて、目印をして更に釣り登った。
更に、これでも、更に釣れる、ポイント、ポイントでアタリがあり、良い型の岩魚が釣れ上がってくる。夕方、あたりが薄暗くなるまで、七時頃まで釣り続け、更に魚籠一杯。
魚籠が重くて肩が痛い。疲れも全く感じず、良くもまあ、夢中になって釣り続けたものである。これも腹を割いて、ビニ-ルの袋に入れ、林道を歩いて帰路に着く。
途中、河原に埋めて置いた岩魚を取り出す。それから車の置いてある場所まで歩く。なにせ、ずっとバカ長靴で歩いてきたものだから歩きにくくてしようがないが足取りは軽い。こんなに釣れたのは、後にも先にも始めてであろう。
魚籠二杯、約40匹、しかも皆、25~30cmの良型ばかり。ゆっくりした足取りで歩いていると、相当上流に入った人に追い抜かされたが、その人に聞いて見ると、上流の方ではほとんど出なかったとの事。
やはり下流の方で正解であった。駐車場にやっとの思いで辿り着き、近くにあった、板取の太い幹を切って、これをグラス代わりにして飲んだウイスキ-の旨かったこと。板取も節と節の間には水が溜まっていて、丁度良い水割りになった。多少青臭くて、何とも言えない、自然の味と言ったら良いか、渓の味と言ったら良いか、素晴らしい味であった。
---それから約一年後、夢よもう一度とばかり、こんちゃん、ゴリラ、僕の三人で車にオ-トバイを積んで釣行したが、アタリが全然なく、やっとの思いで僕が一匹釣っただけであった。結局、釣りを止めて、山ウド、蕗、等の山菜を一杯取って帰ってきた。渓流はこれだから解らない。
天候とか、水温とか、水量とかが影響するものと思うが、柳の下にドジョウが二匹、やはり居なかった。但、この時、釣れなかったけど、楽しそうだったゴリラの顔が目に浮かぶ。------
〔山男魚〕
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2000年01月09日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 8」
95/10/16 22:59
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その8-1
第八章1 「井川にて」
城南フィシングクラブの連中と色々な所へ釣りに行ったが、多くの思い出が残っている。それもそれぞれ非常に深い印象として、楽しい思いとして、ほのぼのとした思いとして心の中にしまわれている。
中でも、楽しく、愉快な釣りをしたのは、井川への釣行であろう。それは昭和56年か57年頃の梅雨に入る少し前の頃の出来事である。同行したメンバ-は、やっさん、おかやん、かずを、てっちゃん、なしやん、きよみ、僕の計7人だったと思う。
井川は大井川の上流域で、畑薙第二ダムから上で、赤石岳、聖岳、等南アルプスの麓を流れる、それは素晴らしい渓流である。我々が住んでいた山梨県都留市から井川の上流までは、車で7時間ばかり掛かるので、日帰りの釣行は無理。
従って、キャンプ道具一式積んでの釣行となる訳である。東名高速を静岡で降り、安倍川を渡り、井川村を抜けてどんどん北上し、畑薙第二ダムまで行く。アウトドア-ライフは全員大好きで大得意。
畑薙第二ダムから上は通行止めになっており、道路にはゲ-トが設けられており、一般の車は入れない。電力会社の人か、林業関係者かずうっと上に小屋の関係者の人しか入れない。我々はこの関係者の関係者のその又関係者から鍵を借りることが出来た。
この人は富士吉田市の飲み屋の主人で「釣り気違い」、毎日の様に朝早く出掛け、店を開けるまでには帰って来ると言う繰り返しをやっていたようである。後年、このご主人は病気で亡くなってしまった。良く一緒に釣りにつれて行ってもらったが良い人だった。惜しい人を無くしてしまった。まだ、若かったのに。
このご主人から借りた鍵で、ゲ-トの鍵を開け、車で林道に入った。この林道は、深い崖っぷちの上を通っている細い道で、いたるところに落石の跡があり、落ちた車の残骸があったりで極めて危険な道である。
いくら釣りが好きでも、ここから落ちて、皆と心中するのは嫌であるから、車の運転は慎重に、慌てず、ゆっくりとやる。
一緒に行った連中は、いつもは無茶なことばかりや連中だったが、釣りということになると、あくまで慎重で、まず安全を第一に考えた。もっとも、交通事故にしろ、滑落事故にしろ、事故が発生すれば、釣りどころではなくなってしまって、釣りができなくなってしまう「釣りがしたい、山女魚に会いたい」が先に立って、より慎重になっているのかもしれない。
さて、この道を走ると、右下に井川の、それは素晴らしい渓流が見える。ガンガンの瀬あり、落ち込みがあり、大きな石の周りの巻き込みあり、トロ場あり、あらゆる所ポイントの連続である。
更に、登って行く。赤石岳、聖岳に入る登山道の手前に、渓流に降りる道が作られており、ちょっとした広場になっており、駐車できるスペ-スもある。ここをベ-スキャンプと決めて装備を解く。
周りには蕗の葉が茂り、名前は良く判らないが、白い小さな花が咲き、流れる水は鮮烈で、空気は澄み、何とも言えず、口数も少なくなる。周りには我々以外誰も居ない。
「おれたちゃ、どういうところへきちまったんだろう、これじゃ釣れなくてもいいや、この空気うめぇ最高だ」誰かが呟く。
「おい、景色にみとれてねぇで、まずビ-ルを冷やせや」近くの流れの中にネットに入れた缶ビ-ルを、流されないように石で止めてほおりこむ。こう言うときは、会社での仕事と違って、いやにテキパキと動く。
全員集合して、何処に釣りに入るか議論した。赤石沢、聖沢、奥西河内、ず-っと上流の東保、西保、皆で一緒に、わいわいガヤガヤ仲良く釣れる所が良いな、冗談じゃねえ、山女魚釣りだぜ、忍者釣りだぜ。でもまあ皆で仲良くやるかと言うことで本流に入る事にした。
前の日の夜十時に、車二台に分乗し、徹夜で走ってここに着いたのが朝五時。気分は最高。それぞれ、そわそわ、いそいそと釣りの仕掛けを編み、二~三名のパ-ティを組んで、釣りに向かう。
昼の十二時にベ-スキャンプに集合ということに決まり、それぞれ、自分が眼に付けて置いたポイントに入る。ここはo~゙2ノォニ・ーしい所だ。水量も多く、全体的に流れはとても早い。 ※この文章の文字化けはオリジナルです
5、4メ-トルの竿に、大物がいるのはわかったいたので、糸は0、8号の通し、おもりはガン玉の大、エサはイクラ。泡を立てて流れている瀬の上に、仕掛けを投入する。
目印が流れに乗ってながれる。目印が、緩やかになった流れに乗ったとき目印がフゥッと横に動き、アタリがある。「今日は調子が良いぞ! よし、やった」ピシッと合わせる。魚の掛かった手応えがあり、キラキラと良い型の魚が上がってくる。・・?
しかし、残念ながら山女魚ではなく、ウグイ。静かに針を外して放流してやる。気を取り戻してもう一度流す。何回か流すうちにアタリがあり、あわせるが、又、ウグイ、「クソ! 又、ウグイかよ、山女魚ちゃんはどこへいっちまったんだよ」
・注:ここで言っている山女魚と言うのは厳密にはあまご、しかし、愛知県、岐阜県で釣れる、あまご、とはちょっと違う感じがするので、
ここではあえて、山女魚とした。
何回か流しているうちに、ウグイの当たりが遠のく。このポイントも当たりがなくなったか、そろそろ次のポイントへ移ろうか、と考えている矢先、今までとは違う強烈な当たり、完全に針掛かりし、早い流れに乗って下流に引っ張られる。
「がんばれ、ツッパレ、負けるな、のされるな」自分自信に掛け声をかける。やっとの思いで上げたのは、尺近い大物。「やったぜ! なんてきれいなんだ、なんちゅう素晴らしい姿なんだ」実際ここの山女魚は、水量が多く流れが早いせいか、体に比較して尻尾が大きく三角形にピンと張っていて、全体的に締まっている。色も白銀色でパ-マ-クもくっきり、それはそれはきれいである。
この様に、この日の午前中に各人それぞれ、尺に近い大物を含めてかなり良い釣りをした。5~6匹づつ各人釣っていたと憶えている。昼にベ-スキャンプに集合し、昼食。
石を集めて窯を作り、火を起こして、アルミニウムの鍋に入った、インスタント鍋焼うどんをあっためる。出来上がる間に今朝冷やして置いたビ-ルを一杯、これがたっぷり冷えていて、うまいのなんの甘露甘露。
そうこうしているうちに、窯にかけた鍋焼うどんが沸騰し始め、良いにおいが漂う。そこいら辺にある太めの笹竹を取ってきて箸にし、おもむろに食べ始める。これがまたうまい。それぞれの釣果を自慢したり。
「そこの下の淵でよう、すげえあたりがあってよう、08の糸が一気に切られちまった」
「どこでもウグイのアタリがしばらく続いて、一段落すると山女魚のアタリがあるんだよ」
等の釣り談義に花が咲き、花や草や鳥や虫や動物や岩や空や雲や水を見てしばらく寛ぐ。
しばらく寛いだ後、今日の夕食は山女魚のサシミに塩焼き、山菜のみそ汁と決まり、午後はそれぞれ、昼寝をして休息したり、山菜を採ったり、好きな連中は更に釣りをしたり、夕食前の夕まずめまでの間、時間を潰し、夕まずめのチャンスを待つ。
それぞれ、又、釣りに入った。但し、夕食を作る当番に当たった人は釣りをやらないで、火をおこし、米を研いで、ご飯を炊き、味噌汁を作り、山女魚の刺し身、塩焼き、山菜のサラダ等を作って皆の帰りを待つことになる。午前中の釣りで皆、比較的満足する釣果を得ていたので、食事当番になった人々も文句は言わなかった。
この時の当番はやっさんと僕だった。食事の準備も楽しいもので、これだけの自然に囲まれ、雄大な流れの前では、皆、心が素直になる様で、食事当番でもあとかたずけでも、笑顔でやれるものである。
この又、夕食が旨い、釣りから帰ってきた連中を待って、渓の水で割ったウィスキ-が旨い。何とも言えない。山女魚の刺し身や塩焼きを肴にウィスキ-を飲みながら、食事をしながらの話も弾む。
「そこの下の淵にはでかいのがいるぜ、明日の朝は絶対に上げてやる」
「お前じゃ無理あれは俺があげてやる」
「いや、あれは俺のもんだ」等々。皆、酒もついつい飲みすぎてしまう。
この項 つづく 〔山男魚〕
95/10/17 21:54
「鶴見川からモントレ-へ」釣りによって出会った情景と人々 その8-2
第八章2 「井川にて」つづき
テントは二幕、夕食前に皆で張り、いつでも寝れる様にしてあり、夕食のかたずけも皆で協力して、皿や鍋を洗うもの、火の後かたずけをするものと銘々に手分けしてすませ、明日の朝は早いので、早めに寝ようと言うことになった。
さて、それでは寝ようかと寝袋に入った矢先、雨が降ってきた。それも段々強くなり、ドシャ振りとなり、とうとうテントの一部から雨が漏り始めた。
雨が降るとは思っていなかったものだからオ-バ-テント等の補強をしていなかったので、慌ててテントの周に溝を掘り、テントを補強した。
暫く、様子を見ていたが、雨は一向に弱まる気配は無い。「こりゃ明日の釣りは無理だぜ、ちょっと、川の様子を見てくるわ」勇士が川の様子を見に行く。----
懐中電灯の大きな物を持って、河原まで降りて様子をみると、水かさはぐんぐん増え、濁りもどんどん増している。強い雨が上から叩きつける様に降ってくる。当分の間、雨は上がりそうにない。
せっかく、時間をかけてやって来たのに残念だけど、自然にはかてない。
「だめだ、だめだ、水はガンガン多くなるし、水も濁りはじめてる、こりゃ-、明日の釣りは無理だ」こうなっては明日の釣りは無理だろう、それなら皆で酒でも飲もうと言うことになり、ひとつのテントに集まって、酒盛りが始まってしまった。
飲むとなるとこの連中は半端ではなく、本当に良く飲む、但、余り良い酒は飲まない、リザ-ブなんて言ったら盆と正月。この時はホワイト、しかも大瓶。ひとりほぼボトルの半分以上は飲んでいたな。重かろうが、かさばろうがアルコ-ル類は目一杯詰め込んで行く連中何だから、僕も含めて。
その間、釣りの話に花が咲き、各人とも、杯を重ね飲みすぎる程に飲み、良い加減、酔ったところで、それぞれ自分のテントに引き上げ、寝袋に入って、寝入ってしまった。
寝たのは夜中の十二時過ぎであったと思う。僕も皆と一緒に大いに飲み、寝てしまった訳であるが、朝方五時頃であろうか、喉が渇き、又、トイレにも行きたくなって、眼が覚めてしまった。テントから外に出て見ると、雨は嘘の様に上がっており、まだ薄暗い空には満天の星。
渓の流れの方は増流した上に、ドロドロに濁っているであろうと思ったが目も冴えてしまったので渓の様子を見に行った。渓の流れは予想に反して、増水はしているものの、流れもそんなに濁っておらず、言わば笹濁りの状態で、釣りにとっては絶好のコンディション。
上流の方では差ほど降らなかったらしい。こりゃ大変だと慌てて皆を起こしに行ったが、深酒のせいか、僕が冗談を言っているものと思ったのか、誰一人として起きてくるものは居ない。
「オイ、起きろ、雨は上がったぜ、川は笹濁りで最高だぜ、起きろ、起きろ!」
「ウソ-ツケ、まだ暗いじゃんか、もう少し寝かせてくれ」
「本当、本当に笹濁りだってば!」
「いいから、もう少し寝かせてくれ、頼むよ」
誰も起きやしない。もう一幕りのテントにも同じことを言うが、ここも誰一人として起きてこない。僕としては、今更、寝る訳にもいかず、又、悔しいので、自分の釣り竿と、仕掛けとエサのイクラを持ってベ-スキャンプの前のチャラ瀬で釣りを始めた。
釣果に対しては余り期待しておらず、朝の空気は綺麗だし、雨上がりの景色も良いので、時間潰しに、と思って釣り始めたが、それこそ入れ喰い。キャンプ前と、その上流五十メ-トル位の間で、尺に近いものも含めて、一時間程の間に十匹ほど釣った。
糸を流れの中に入れたまま移動しようとしたら、その仕掛けに良型の山女魚が掛かる始末で入れ喰い状態が続いた。---これは、絶対に皆に知らせなくては、と皆を起こすが、これ又、起きやしない。
「冗談言うな、こんな時に釣れる訳ね-だろ-」 起きやしない。
「尺物がバンバンでるぞ、バンバン、入れ喰いだぞ、起きろ、目を開け」大声で叫び、釣ってきた良型の山女魚を奴らの目の前にぶら下げて、見せびらかしてやった。
「---- !!! ほほほほんんとだ、こりゃ-えれ-こった」なんだか訳の判らないことを言って、山女魚をみた時の連中の慌てぶりは無かったな。慌てて、竿を取り出し渓へ飛んで行ったっけ。楽しかったな、面白かった、素晴らしかったな。--その後何回か井川に釣りに行ったがこの時程釣れたことはなかった。
当日は雨の後と言う事もあって、水量が多く、場所によっては、ゴウゴウと音を立てて流れている様な状態であった。
対岸に川の中を歩いて渡れる状態では無かった。キャンプより百メ-トル程上に吊り橋があったが渡し板はほとんど無くなっており、錆びたワイヤ-だけが残っている様な状態。
ここをかなり恐ろしい思いをしながら一人づつ渡った。対岸の方が広く、ポイントも多く、大勢で入るためには良かったからである。ある大きな岩の周りに巻き込みのポイントがある。その巻き込みの少し上で、きよみ、がそのポイントを狙って釣りをしていた。
僕はこの巻き込みの少し上のかなり流れの激しいところに振り込んだ。目印が流れに乗って巻き込みに入り、きよみの足元近くに流れて行ったところ急に目印が引き込まれ、きよみの足元から尺近い山女魚を引き抜いた。これには、きよみもびっくり、皆もびっくり、釣った僕自信もびっくり。
その後、てっちゃんが先行し、その後に僕が続き、更にその後にかずをが続くと言う順で井川中流域を釣り下った。普通、山女魚や岩魚等の渓流釣りの場合、釣り上がるのが常識で、又、大勢で入ることは無いのであるが、井川の場合、広くポイントも多いので、釣り下ろうが、大勢で入ろうが全然問題無かった。
さて、てっちゃんがあるポイントで粘っている。これでもか、これでもかと何回となく流すが当たりが無い。ついに諦めて次のポイントに移動する。次に僕がそのポイント、同じポイントを流すと、ドンと言う当たりがあり、合わせると強烈な引き、なかなか上がってこない。
やっとの事でナ晴て見ると、これが尺物。一部始終を見ていたてっちゃんが悔しがることったらありゃしなかった。てっちゃんの苦笑いが目に浮かぶ。
こう言う事が平気でおきるのが当時の井川だった。実に楽しく、素晴らしい想い出である。実に。こう言う想い出を持っている僕は幸せである。こう言う想い出を作ってくれた井川の自然にお礼を言いたい。
清流がゴウゴウと流れ、川の土手には名もない種々の花が咲き乱れ、小さな、大きな鳥が舞い、虫や岩が自然の中に溶け込んでいる井川。これが変わろうとしているらしい噂を聞いた。確かにダムも重要かもしれないが、もっと重要なものがある様な気がする。
1999年の8月に人間は神の神罰を受けると言う噂もあるが、人類のやってきた行動を考えるに、このことも、甘んじて、受けるべきなのかな、と感じている。
〔やおめ〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その8-1
第八章1 「井川にて」
城南フィシングクラブの連中と色々な所へ釣りに行ったが、多くの思い出が残っている。それもそれぞれ非常に深い印象として、楽しい思いとして、ほのぼのとした思いとして心の中にしまわれている。
中でも、楽しく、愉快な釣りをしたのは、井川への釣行であろう。それは昭和56年か57年頃の梅雨に入る少し前の頃の出来事である。同行したメンバ-は、やっさん、おかやん、かずを、てっちゃん、なしやん、きよみ、僕の計7人だったと思う。
井川は大井川の上流域で、畑薙第二ダムから上で、赤石岳、聖岳、等南アルプスの麓を流れる、それは素晴らしい渓流である。我々が住んでいた山梨県都留市から井川の上流までは、車で7時間ばかり掛かるので、日帰りの釣行は無理。
従って、キャンプ道具一式積んでの釣行となる訳である。東名高速を静岡で降り、安倍川を渡り、井川村を抜けてどんどん北上し、畑薙第二ダムまで行く。アウトドア-ライフは全員大好きで大得意。
畑薙第二ダムから上は通行止めになっており、道路にはゲ-トが設けられており、一般の車は入れない。電力会社の人か、林業関係者かずうっと上に小屋の関係者の人しか入れない。我々はこの関係者の関係者のその又関係者から鍵を借りることが出来た。
この人は富士吉田市の飲み屋の主人で「釣り気違い」、毎日の様に朝早く出掛け、店を開けるまでには帰って来ると言う繰り返しをやっていたようである。後年、このご主人は病気で亡くなってしまった。良く一緒に釣りにつれて行ってもらったが良い人だった。惜しい人を無くしてしまった。まだ、若かったのに。
このご主人から借りた鍵で、ゲ-トの鍵を開け、車で林道に入った。この林道は、深い崖っぷちの上を通っている細い道で、いたるところに落石の跡があり、落ちた車の残骸があったりで極めて危険な道である。
いくら釣りが好きでも、ここから落ちて、皆と心中するのは嫌であるから、車の運転は慎重に、慌てず、ゆっくりとやる。
一緒に行った連中は、いつもは無茶なことばかりや連中だったが、釣りということになると、あくまで慎重で、まず安全を第一に考えた。もっとも、交通事故にしろ、滑落事故にしろ、事故が発生すれば、釣りどころではなくなってしまって、釣りができなくなってしまう「釣りがしたい、山女魚に会いたい」が先に立って、より慎重になっているのかもしれない。
さて、この道を走ると、右下に井川の、それは素晴らしい渓流が見える。ガンガンの瀬あり、落ち込みがあり、大きな石の周りの巻き込みあり、トロ場あり、あらゆる所ポイントの連続である。
更に、登って行く。赤石岳、聖岳に入る登山道の手前に、渓流に降りる道が作られており、ちょっとした広場になっており、駐車できるスペ-スもある。ここをベ-スキャンプと決めて装備を解く。
周りには蕗の葉が茂り、名前は良く判らないが、白い小さな花が咲き、流れる水は鮮烈で、空気は澄み、何とも言えず、口数も少なくなる。周りには我々以外誰も居ない。
「おれたちゃ、どういうところへきちまったんだろう、これじゃ釣れなくてもいいや、この空気うめぇ最高だ」誰かが呟く。
「おい、景色にみとれてねぇで、まずビ-ルを冷やせや」近くの流れの中にネットに入れた缶ビ-ルを、流されないように石で止めてほおりこむ。こう言うときは、会社での仕事と違って、いやにテキパキと動く。
全員集合して、何処に釣りに入るか議論した。赤石沢、聖沢、奥西河内、ず-っと上流の東保、西保、皆で一緒に、わいわいガヤガヤ仲良く釣れる所が良いな、冗談じゃねえ、山女魚釣りだぜ、忍者釣りだぜ。でもまあ皆で仲良くやるかと言うことで本流に入る事にした。
前の日の夜十時に、車二台に分乗し、徹夜で走ってここに着いたのが朝五時。気分は最高。それぞれ、そわそわ、いそいそと釣りの仕掛けを編み、二~三名のパ-ティを組んで、釣りに向かう。
昼の十二時にベ-スキャンプに集合ということに決まり、それぞれ、自分が眼に付けて置いたポイントに入る。ここはo~゙2ノォニ・ーしい所だ。水量も多く、全体的に流れはとても早い。 ※この文章の文字化けはオリジナルです
5、4メ-トルの竿に、大物がいるのはわかったいたので、糸は0、8号の通し、おもりはガン玉の大、エサはイクラ。泡を立てて流れている瀬の上に、仕掛けを投入する。
目印が流れに乗ってながれる。目印が、緩やかになった流れに乗ったとき目印がフゥッと横に動き、アタリがある。「今日は調子が良いぞ! よし、やった」ピシッと合わせる。魚の掛かった手応えがあり、キラキラと良い型の魚が上がってくる。・・?
しかし、残念ながら山女魚ではなく、ウグイ。静かに針を外して放流してやる。気を取り戻してもう一度流す。何回か流すうちにアタリがあり、あわせるが、又、ウグイ、「クソ! 又、ウグイかよ、山女魚ちゃんはどこへいっちまったんだよ」
・注:ここで言っている山女魚と言うのは厳密にはあまご、しかし、愛知県、岐阜県で釣れる、あまご、とはちょっと違う感じがするので、
ここではあえて、山女魚とした。
何回か流しているうちに、ウグイの当たりが遠のく。このポイントも当たりがなくなったか、そろそろ次のポイントへ移ろうか、と考えている矢先、今までとは違う強烈な当たり、完全に針掛かりし、早い流れに乗って下流に引っ張られる。
「がんばれ、ツッパレ、負けるな、のされるな」自分自信に掛け声をかける。やっとの思いで上げたのは、尺近い大物。「やったぜ! なんてきれいなんだ、なんちゅう素晴らしい姿なんだ」実際ここの山女魚は、水量が多く流れが早いせいか、体に比較して尻尾が大きく三角形にピンと張っていて、全体的に締まっている。色も白銀色でパ-マ-クもくっきり、それはそれはきれいである。
この様に、この日の午前中に各人それぞれ、尺に近い大物を含めてかなり良い釣りをした。5~6匹づつ各人釣っていたと憶えている。昼にベ-スキャンプに集合し、昼食。
石を集めて窯を作り、火を起こして、アルミニウムの鍋に入った、インスタント鍋焼うどんをあっためる。出来上がる間に今朝冷やして置いたビ-ルを一杯、これがたっぷり冷えていて、うまいのなんの甘露甘露。
そうこうしているうちに、窯にかけた鍋焼うどんが沸騰し始め、良いにおいが漂う。そこいら辺にある太めの笹竹を取ってきて箸にし、おもむろに食べ始める。これがまたうまい。それぞれの釣果を自慢したり。
「そこの下の淵でよう、すげえあたりがあってよう、08の糸が一気に切られちまった」
「どこでもウグイのアタリがしばらく続いて、一段落すると山女魚のアタリがあるんだよ」
等の釣り談義に花が咲き、花や草や鳥や虫や動物や岩や空や雲や水を見てしばらく寛ぐ。
しばらく寛いだ後、今日の夕食は山女魚のサシミに塩焼き、山菜のみそ汁と決まり、午後はそれぞれ、昼寝をして休息したり、山菜を採ったり、好きな連中は更に釣りをしたり、夕食前の夕まずめまでの間、時間を潰し、夕まずめのチャンスを待つ。
それぞれ、又、釣りに入った。但し、夕食を作る当番に当たった人は釣りをやらないで、火をおこし、米を研いで、ご飯を炊き、味噌汁を作り、山女魚の刺し身、塩焼き、山菜のサラダ等を作って皆の帰りを待つことになる。午前中の釣りで皆、比較的満足する釣果を得ていたので、食事当番になった人々も文句は言わなかった。
この時の当番はやっさんと僕だった。食事の準備も楽しいもので、これだけの自然に囲まれ、雄大な流れの前では、皆、心が素直になる様で、食事当番でもあとかたずけでも、笑顔でやれるものである。
この又、夕食が旨い、釣りから帰ってきた連中を待って、渓の水で割ったウィスキ-が旨い。何とも言えない。山女魚の刺し身や塩焼きを肴にウィスキ-を飲みながら、食事をしながらの話も弾む。
「そこの下の淵にはでかいのがいるぜ、明日の朝は絶対に上げてやる」
「お前じゃ無理あれは俺があげてやる」
「いや、あれは俺のもんだ」等々。皆、酒もついつい飲みすぎてしまう。
この項 つづく 〔山男魚〕
95/10/17 21:54
「鶴見川からモントレ-へ」釣りによって出会った情景と人々 その8-2
第八章2 「井川にて」つづき
テントは二幕、夕食前に皆で張り、いつでも寝れる様にしてあり、夕食のかたずけも皆で協力して、皿や鍋を洗うもの、火の後かたずけをするものと銘々に手分けしてすませ、明日の朝は早いので、早めに寝ようと言うことになった。
さて、それでは寝ようかと寝袋に入った矢先、雨が降ってきた。それも段々強くなり、ドシャ振りとなり、とうとうテントの一部から雨が漏り始めた。
雨が降るとは思っていなかったものだからオ-バ-テント等の補強をしていなかったので、慌ててテントの周に溝を掘り、テントを補強した。
暫く、様子を見ていたが、雨は一向に弱まる気配は無い。「こりゃ明日の釣りは無理だぜ、ちょっと、川の様子を見てくるわ」勇士が川の様子を見に行く。----
懐中電灯の大きな物を持って、河原まで降りて様子をみると、水かさはぐんぐん増え、濁りもどんどん増している。強い雨が上から叩きつける様に降ってくる。当分の間、雨は上がりそうにない。
せっかく、時間をかけてやって来たのに残念だけど、自然にはかてない。
「だめだ、だめだ、水はガンガン多くなるし、水も濁りはじめてる、こりゃ-、明日の釣りは無理だ」こうなっては明日の釣りは無理だろう、それなら皆で酒でも飲もうと言うことになり、ひとつのテントに集まって、酒盛りが始まってしまった。
飲むとなるとこの連中は半端ではなく、本当に良く飲む、但、余り良い酒は飲まない、リザ-ブなんて言ったら盆と正月。この時はホワイト、しかも大瓶。ひとりほぼボトルの半分以上は飲んでいたな。重かろうが、かさばろうがアルコ-ル類は目一杯詰め込んで行く連中何だから、僕も含めて。
その間、釣りの話に花が咲き、各人とも、杯を重ね飲みすぎる程に飲み、良い加減、酔ったところで、それぞれ自分のテントに引き上げ、寝袋に入って、寝入ってしまった。
寝たのは夜中の十二時過ぎであったと思う。僕も皆と一緒に大いに飲み、寝てしまった訳であるが、朝方五時頃であろうか、喉が渇き、又、トイレにも行きたくなって、眼が覚めてしまった。テントから外に出て見ると、雨は嘘の様に上がっており、まだ薄暗い空には満天の星。
渓の流れの方は増流した上に、ドロドロに濁っているであろうと思ったが目も冴えてしまったので渓の様子を見に行った。渓の流れは予想に反して、増水はしているものの、流れもそんなに濁っておらず、言わば笹濁りの状態で、釣りにとっては絶好のコンディション。
上流の方では差ほど降らなかったらしい。こりゃ大変だと慌てて皆を起こしに行ったが、深酒のせいか、僕が冗談を言っているものと思ったのか、誰一人として起きてくるものは居ない。
「オイ、起きろ、雨は上がったぜ、川は笹濁りで最高だぜ、起きろ、起きろ!」
「ウソ-ツケ、まだ暗いじゃんか、もう少し寝かせてくれ」
「本当、本当に笹濁りだってば!」
「いいから、もう少し寝かせてくれ、頼むよ」
誰も起きやしない。もう一幕りのテントにも同じことを言うが、ここも誰一人として起きてこない。僕としては、今更、寝る訳にもいかず、又、悔しいので、自分の釣り竿と、仕掛けとエサのイクラを持ってベ-スキャンプの前のチャラ瀬で釣りを始めた。
釣果に対しては余り期待しておらず、朝の空気は綺麗だし、雨上がりの景色も良いので、時間潰しに、と思って釣り始めたが、それこそ入れ喰い。キャンプ前と、その上流五十メ-トル位の間で、尺に近いものも含めて、一時間程の間に十匹ほど釣った。
糸を流れの中に入れたまま移動しようとしたら、その仕掛けに良型の山女魚が掛かる始末で入れ喰い状態が続いた。---これは、絶対に皆に知らせなくては、と皆を起こすが、これ又、起きやしない。
「冗談言うな、こんな時に釣れる訳ね-だろ-」 起きやしない。
「尺物がバンバンでるぞ、バンバン、入れ喰いだぞ、起きろ、目を開け」大声で叫び、釣ってきた良型の山女魚を奴らの目の前にぶら下げて、見せびらかしてやった。
「---- !!! ほほほほんんとだ、こりゃ-えれ-こった」なんだか訳の判らないことを言って、山女魚をみた時の連中の慌てぶりは無かったな。慌てて、竿を取り出し渓へ飛んで行ったっけ。楽しかったな、面白かった、素晴らしかったな。--その後何回か井川に釣りに行ったがこの時程釣れたことはなかった。
当日は雨の後と言う事もあって、水量が多く、場所によっては、ゴウゴウと音を立てて流れている様な状態であった。
対岸に川の中を歩いて渡れる状態では無かった。キャンプより百メ-トル程上に吊り橋があったが渡し板はほとんど無くなっており、錆びたワイヤ-だけが残っている様な状態。
ここをかなり恐ろしい思いをしながら一人づつ渡った。対岸の方が広く、ポイントも多く、大勢で入るためには良かったからである。ある大きな岩の周りに巻き込みのポイントがある。その巻き込みの少し上で、きよみ、がそのポイントを狙って釣りをしていた。
僕はこの巻き込みの少し上のかなり流れの激しいところに振り込んだ。目印が流れに乗って巻き込みに入り、きよみの足元近くに流れて行ったところ急に目印が引き込まれ、きよみの足元から尺近い山女魚を引き抜いた。これには、きよみもびっくり、皆もびっくり、釣った僕自信もびっくり。
その後、てっちゃんが先行し、その後に僕が続き、更にその後にかずをが続くと言う順で井川中流域を釣り下った。普通、山女魚や岩魚等の渓流釣りの場合、釣り上がるのが常識で、又、大勢で入ることは無いのであるが、井川の場合、広くポイントも多いので、釣り下ろうが、大勢で入ろうが全然問題無かった。
さて、てっちゃんがあるポイントで粘っている。これでもか、これでもかと何回となく流すが当たりが無い。ついに諦めて次のポイントに移動する。次に僕がそのポイント、同じポイントを流すと、ドンと言う当たりがあり、合わせると強烈な引き、なかなか上がってこない。
やっとの事でナ晴て見ると、これが尺物。一部始終を見ていたてっちゃんが悔しがることったらありゃしなかった。てっちゃんの苦笑いが目に浮かぶ。
こう言う事が平気でおきるのが当時の井川だった。実に楽しく、素晴らしい想い出である。実に。こう言う想い出を持っている僕は幸せである。こう言う想い出を作ってくれた井川の自然にお礼を言いたい。
清流がゴウゴウと流れ、川の土手には名もない種々の花が咲き乱れ、小さな、大きな鳥が舞い、虫や岩が自然の中に溶け込んでいる井川。これが変わろうとしているらしい噂を聞いた。確かにダムも重要かもしれないが、もっと重要なものがある様な気がする。
1999年の8月に人間は神の神罰を受けると言う噂もあるが、人類のやってきた行動を考えるに、このことも、甘んじて、受けるべきなのかな、と感じている。
〔やおめ〕
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2000年01月08日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 7」
95/10/15 21:16
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その7
第七章 「城南フィシングクラブ」
昭和50年(1975)頃のこと。会社の中で、釣り好きな連中が集まって城南フィシングクラブと言う、クラブを結成した。結成後、メンバ-も大分変わったが、のべのメンバ-は、おっちゃん、やっさん、おかやん、こんちゃん、なしやん、かずお、てっちゃん、すぎやん、いとやん、くまさん、きよみ、ゴリラ、それと、僕、山男魚の計13人である。
この連中は、一癖も二癖もある連中であったが、こよなく自然を愛し、渓を愛し、山や海を愛し、酒と女を愛する連中であった。一部の人達は退社し、僕が1989年に抜け、事実上解体してしまったが、約14年続いたことになる。
おっちゃん:釣りの師匠、僕より一回り位年上で、今では天眼鏡がないと
釣りの仕掛けが編めない、山女魚の解禁でも、鮎の解禁でも
一匹釣れば満足で、後は、河原で酒を飲んでいるのが常。
やっさん :いかつい顔の割りに心は優しく、秋山村に連れていって始めて
山女魚を釣り、それ以来すっかり嵌まってしまう。
おかやん :一見、ヤ-サンの親分タイプだけど、れっきとしたビシネスマ
ン。ポイントで粘る粘る。しつっこさが信条。
こんちゃん:釣りに限らず、狩猟にかけては腕が立つ。春から夏は、渓を
秋から冬は山の中を駆け回っていて、一年中休み無し。
なしやん :合流の少し上のポイントに連れて行き釣りをおしえる。この
時、尺近い山女魚を掛け、しかもスレで背びれに掛けあっち
こっち引っ張り回され真っ青になる。これ以来気違いになる。
かずを :玉川名人、別名、玉川かず太郎、シ-ズン中玉川に行けば必ず
いる。短竿で細かいポイントを丹念に探るタイプ。
てっちゃん:自説を決して曲げない堅物。でも女性に弱い、自分で狙った
ポイントは飽くまでもしつこく粘る。
すぎやん :おとなしい紳士風。釣れても釣れなくても飄々と釣り歩く。
酒には弱い。
いとやん :普段は極めておとなしい青年だが、釣りは天才的に上手い。
長竿が得意。
くまさん :資材担当。皆が必要な資材を調達する。人を先に行かせてゆ
っくり釣るタイプ。情報は豊富
きよみ :何処かに皆で出掛けるのが好きで好きでたまらないタイプ。
それが釣りなら尚更。
ゴリラ :いかつい体格をした若者。釣りより、酒を皆で飲む方が好き
みたい。顔に比べて、信じられない程優しい面がある。
やおめ :本文参照。
皆で活動している当時は実に楽しかった。毎年、1~2回、遠征と称して伊豆へ行ったり、岐阜へ行ったり、東北の方へ行ったりしたものである。毎月三千円ぐらいづつ会費を集め、これを貯めておいて資金に充てた。
又、毎年その年の忘年会の時、次の年の会長、副会長、会計、遠征の幹事を推薦あるいはくじ引きで決めて、会の運営にあたった。又、シ-ズン中は月に一回、山女魚、岩魚を対象にして、釣り大会を開いた。 先ず、大会の日程を決め、あみだくじでそれぞれ入りたい場所(渓)を決める。
人それぞれに、自分の得意な渓があり、又、季節や天候によって、良い渓悪い渓があり、わいわいがやがや、場所取りで一悶着。集合は朝の四時か五時で、七時か八時以降は誰が何処に入っても良い決まりになっていた。
30cm以上の場合は10点、30~28cmの場合は8点、28~25cmの場合は6点、25~23cmの場合は4点、23~20cmの場合は2点、20~15cmの場合は1点、15cm以下は放流、もし、15cm以下のものを持ちかえったら罰金。対象魚は山女魚と岩魚。虹鱒、ウグイ、ブラウン鱒、等の魚は対象外で、虹鱒などを持って帰ると皆に馬鹿にされた。
年間の成績を集計して、上位より、賞金を分配する様な事を行い、毎年、忘年会の席上で表彰が行われた。又、30cm以上の岩魚又は山女魚を釣った人は、名人位と言う賞と栄誉が与えれた。
30cm以上のものが釣れた場合、二人以上の証人と、釣れた場所、状況、エサ、仕掛けの詳細(糸の太さ、針の大きさ、重りの大きさ、等)をクラブに報告し、認定を受けなければならない。その決まりは厳しいものであった。
それでは僕が今までに、30cm以上の、いわゆる尺物を釣った記録はどうかと言うと次表の如くである。
昭和50年頃、管野川中域、山女魚 31cm (釣りクラブが結成される前台風が上った後、水量も増え川の濁りもササニゴリ釣りには絶好調と言う状況のもとで釣ったもの、同行したオッチャンもビックリ)
昭和55年頃、井川上流、山女魚 31cm and 32cm (釣りクラブの連中と)
昭和61/6/21 、玉川中域、岩魚 31cm and 32cm (会社が終わってから釣りに行き、二匹も尺モノを)
昭和62/4/19 、桂川上流、山女魚 31cm (富士吉田管内で)
1989年からの5年間、アメリカへ赴任していたため、ブランクはあるが、なんだかんだ偉そうなことを言っても、今までの合計が十数年間で六匹が合計。平成の代に入ってからは一匹も釣ってない。尺物を釣るのは本当に難しい。
何だこんな物か、と馬鹿にする人もいるかもしれないが、自分自信では良くがんばったと思っている。
山女魚や岩魚が流れの中で尺以上に育つためには、状況によって異なると思われるが、本流のエサの豊富なところで、最低二年間、上流域で三年から四年間、沢の奥にいる奴で五年間以上の年月が必要。
これだけ永い時間、人間どもの針に驚かされ、ルア-やフライや毛針に追われ、時には自分の仲間達や、鳥、狐、蛇、いたち、等諸々の敵と生存競争をしなければならず、それは賢くなっていて、おいそれと釣れる理由はない。
山女魚や岩魚釣りの場合、一般的にそうであるが、とにかくポイントには静かに、息をころして、足音をたてず、こちらの姿が見られぬ様、気配を消して、まるで忍者の様に近づきそ-おっと仕掛けを流れの上流に振り込む。
エサがあくまでも自然な状態で、流れる様に竿を操作しなければならない。ちょっとでも、こちらの気配を悟られたり、不自然な状態を悟られたしたら奴はソッポを向いてしまう。
又、エサを喰わえて、ちよっとでも異常な気配があると、エサを瞬時に吐きだしてしまう。もっと頭のいい奴は、エサを喰わえたまま、流れと一緒に下って、アタリをこちらに全く感じさせずに、エサだけ持って行ってしまう。
大きい魚ほどアタリは小さいものである。首尾よく掛けたとしても、尺以上のものになると、その力は強く、まごまごしてると、外されるか糸を切られてしまう。
取り込みも難しく、大変である。尺物を掛けた場合、頭の中は完全に真っ白になり、眼は血走り、顔が引きつる。つり上げた場合、「やったぁ!! こら、あばれんじゃね-、しずかにしろい、もうこっちのもんだ、いいかただ、きれいだ、しっぽもきれいだ、♪♭:**」
何だか分からないことを叫んで、じ-っと奴を見つめ、震える手でおもむろに魚籠に入れる。魚籠の中でゴトゴトと暴れる。「あばれんじゃね-、こんにゃろう」と言いつつ、ここまで育った、山女魚や岩魚に尊敬の念と、多少の哀れみを感じる。
外されたり、糸を切られたりして逃げられた場合、暫し唖然とし、体中の力が抜けてしまい、その場に座り込み、逃げて行った水面をしばらく見つづける。「クソ-! やろ-、まってろ、こんつぎは上げてやるからな!」
と言う様な負け惜しみを言いつつ、その場を去る、しばらく行ってから振り返り、「待ってろ、・・・」つぶやく。そんな日の夜はついつい深酒にな
る。
あの時の状況を「ああでもない、こうでもない」と考えつつ、杯を重ねることになる。そのうち、目が虚ろになり、「ありゃ、でかかった、いいかた
だったよし! 次回はやるぞ、クソッ!」とつぶやきつつ、頭のなか、心の中は朦朧としてくる。
そのうち、あれは本当にあったことなのだろうか。ひょっとしてあれは夢の中の出来事ではなかったのではないかと言う様な気がしてくる。寝床に入っても、その時の光景が浮かんでは消え、浮かんでは消え、あれこれ空想し夢の世界を楽しむことができる。
実際、間違いなく尺物と言う奴に糸を切られたり、外されたりしたことは多々ある。管野川の上流で、井川で、桂川で、その他、色々な所で。折角、岸まで上げたのにそこで切られて山女魚はそこから流れのなかへ、と言う様なこともあった。
殆どの渓流釣り師は、この様な、悔しい様な、悲しい様な、情けないような、その一方、うれしい様な、経験をしていると思う。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その7
第七章 「城南フィシングクラブ」
昭和50年(1975)頃のこと。会社の中で、釣り好きな連中が集まって城南フィシングクラブと言う、クラブを結成した。結成後、メンバ-も大分変わったが、のべのメンバ-は、おっちゃん、やっさん、おかやん、こんちゃん、なしやん、かずお、てっちゃん、すぎやん、いとやん、くまさん、きよみ、ゴリラ、それと、僕、山男魚の計13人である。
この連中は、一癖も二癖もある連中であったが、こよなく自然を愛し、渓を愛し、山や海を愛し、酒と女を愛する連中であった。一部の人達は退社し、僕が1989年に抜け、事実上解体してしまったが、約14年続いたことになる。
おっちゃん:釣りの師匠、僕より一回り位年上で、今では天眼鏡がないと
釣りの仕掛けが編めない、山女魚の解禁でも、鮎の解禁でも
一匹釣れば満足で、後は、河原で酒を飲んでいるのが常。
やっさん :いかつい顔の割りに心は優しく、秋山村に連れていって始めて
山女魚を釣り、それ以来すっかり嵌まってしまう。
おかやん :一見、ヤ-サンの親分タイプだけど、れっきとしたビシネスマ
ン。ポイントで粘る粘る。しつっこさが信条。
こんちゃん:釣りに限らず、狩猟にかけては腕が立つ。春から夏は、渓を
秋から冬は山の中を駆け回っていて、一年中休み無し。
なしやん :合流の少し上のポイントに連れて行き釣りをおしえる。この
時、尺近い山女魚を掛け、しかもスレで背びれに掛けあっち
こっち引っ張り回され真っ青になる。これ以来気違いになる。
かずを :玉川名人、別名、玉川かず太郎、シ-ズン中玉川に行けば必ず
いる。短竿で細かいポイントを丹念に探るタイプ。
てっちゃん:自説を決して曲げない堅物。でも女性に弱い、自分で狙った
ポイントは飽くまでもしつこく粘る。
すぎやん :おとなしい紳士風。釣れても釣れなくても飄々と釣り歩く。
酒には弱い。
いとやん :普段は極めておとなしい青年だが、釣りは天才的に上手い。
長竿が得意。
くまさん :資材担当。皆が必要な資材を調達する。人を先に行かせてゆ
っくり釣るタイプ。情報は豊富
きよみ :何処かに皆で出掛けるのが好きで好きでたまらないタイプ。
それが釣りなら尚更。
ゴリラ :いかつい体格をした若者。釣りより、酒を皆で飲む方が好き
みたい。顔に比べて、信じられない程優しい面がある。
やおめ :本文参照。
皆で活動している当時は実に楽しかった。毎年、1~2回、遠征と称して伊豆へ行ったり、岐阜へ行ったり、東北の方へ行ったりしたものである。毎月三千円ぐらいづつ会費を集め、これを貯めておいて資金に充てた。
又、毎年その年の忘年会の時、次の年の会長、副会長、会計、遠征の幹事を推薦あるいはくじ引きで決めて、会の運営にあたった。又、シ-ズン中は月に一回、山女魚、岩魚を対象にして、釣り大会を開いた。 先ず、大会の日程を決め、あみだくじでそれぞれ入りたい場所(渓)を決める。
人それぞれに、自分の得意な渓があり、又、季節や天候によって、良い渓悪い渓があり、わいわいがやがや、場所取りで一悶着。集合は朝の四時か五時で、七時か八時以降は誰が何処に入っても良い決まりになっていた。
30cm以上の場合は10点、30~28cmの場合は8点、28~25cmの場合は6点、25~23cmの場合は4点、23~20cmの場合は2点、20~15cmの場合は1点、15cm以下は放流、もし、15cm以下のものを持ちかえったら罰金。対象魚は山女魚と岩魚。虹鱒、ウグイ、ブラウン鱒、等の魚は対象外で、虹鱒などを持って帰ると皆に馬鹿にされた。
年間の成績を集計して、上位より、賞金を分配する様な事を行い、毎年、忘年会の席上で表彰が行われた。又、30cm以上の岩魚又は山女魚を釣った人は、名人位と言う賞と栄誉が与えれた。
30cm以上のものが釣れた場合、二人以上の証人と、釣れた場所、状況、エサ、仕掛けの詳細(糸の太さ、針の大きさ、重りの大きさ、等)をクラブに報告し、認定を受けなければならない。その決まりは厳しいものであった。
それでは僕が今までに、30cm以上の、いわゆる尺物を釣った記録はどうかと言うと次表の如くである。
昭和50年頃、管野川中域、山女魚 31cm (釣りクラブが結成される前台風が上った後、水量も増え川の濁りもササニゴリ釣りには絶好調と言う状況のもとで釣ったもの、同行したオッチャンもビックリ)
昭和55年頃、井川上流、山女魚 31cm and 32cm (釣りクラブの連中と)
昭和61/6/21 、玉川中域、岩魚 31cm and 32cm (会社が終わってから釣りに行き、二匹も尺モノを)
昭和62/4/19 、桂川上流、山女魚 31cm (富士吉田管内で)
1989年からの5年間、アメリカへ赴任していたため、ブランクはあるが、なんだかんだ偉そうなことを言っても、今までの合計が十数年間で六匹が合計。平成の代に入ってからは一匹も釣ってない。尺物を釣るのは本当に難しい。
何だこんな物か、と馬鹿にする人もいるかもしれないが、自分自信では良くがんばったと思っている。
山女魚や岩魚が流れの中で尺以上に育つためには、状況によって異なると思われるが、本流のエサの豊富なところで、最低二年間、上流域で三年から四年間、沢の奥にいる奴で五年間以上の年月が必要。
これだけ永い時間、人間どもの針に驚かされ、ルア-やフライや毛針に追われ、時には自分の仲間達や、鳥、狐、蛇、いたち、等諸々の敵と生存競争をしなければならず、それは賢くなっていて、おいそれと釣れる理由はない。
山女魚や岩魚釣りの場合、一般的にそうであるが、とにかくポイントには静かに、息をころして、足音をたてず、こちらの姿が見られぬ様、気配を消して、まるで忍者の様に近づきそ-おっと仕掛けを流れの上流に振り込む。
エサがあくまでも自然な状態で、流れる様に竿を操作しなければならない。ちょっとでも、こちらの気配を悟られたり、不自然な状態を悟られたしたら奴はソッポを向いてしまう。
又、エサを喰わえて、ちよっとでも異常な気配があると、エサを瞬時に吐きだしてしまう。もっと頭のいい奴は、エサを喰わえたまま、流れと一緒に下って、アタリをこちらに全く感じさせずに、エサだけ持って行ってしまう。
大きい魚ほどアタリは小さいものである。首尾よく掛けたとしても、尺以上のものになると、その力は強く、まごまごしてると、外されるか糸を切られてしまう。
取り込みも難しく、大変である。尺物を掛けた場合、頭の中は完全に真っ白になり、眼は血走り、顔が引きつる。つり上げた場合、「やったぁ!! こら、あばれんじゃね-、しずかにしろい、もうこっちのもんだ、いいかただ、きれいだ、しっぽもきれいだ、♪♭:**」
何だか分からないことを叫んで、じ-っと奴を見つめ、震える手でおもむろに魚籠に入れる。魚籠の中でゴトゴトと暴れる。「あばれんじゃね-、こんにゃろう」と言いつつ、ここまで育った、山女魚や岩魚に尊敬の念と、多少の哀れみを感じる。
外されたり、糸を切られたりして逃げられた場合、暫し唖然とし、体中の力が抜けてしまい、その場に座り込み、逃げて行った水面をしばらく見つづける。「クソ-! やろ-、まってろ、こんつぎは上げてやるからな!」
と言う様な負け惜しみを言いつつ、その場を去る、しばらく行ってから振り返り、「待ってろ、・・・」つぶやく。そんな日の夜はついつい深酒にな
る。
あの時の状況を「ああでもない、こうでもない」と考えつつ、杯を重ねることになる。そのうち、目が虚ろになり、「ありゃ、でかかった、いいかた
だったよし! 次回はやるぞ、クソッ!」とつぶやきつつ、頭のなか、心の中は朦朧としてくる。
そのうち、あれは本当にあったことなのだろうか。ひょっとしてあれは夢の中の出来事ではなかったのではないかと言う様な気がしてくる。寝床に入っても、その時の光景が浮かんでは消え、浮かんでは消え、あれこれ空想し夢の世界を楽しむことができる。
実際、間違いなく尺物と言う奴に糸を切られたり、外されたりしたことは多々ある。管野川の上流で、井川で、桂川で、その他、色々な所で。折角、岸まで上げたのにそこで切られて山女魚はそこから流れのなかへ、と言う様なこともあった。
殆どの渓流釣り師は、この様な、悔しい様な、悲しい様な、情けないような、その一方、うれしい様な、経験をしていると思う。
〔山男魚〕
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2000年01月07日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 6」
95/10/14 19:59
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その6
第六章 「渓流釣りの解禁」
渓流釣りは、この当時、昭和50年(1975)、毎年、3月1日が解禁日になっており、冬にはこの日が来るのを、一日千秋の如く、首を長くして待っている訳である。
毎年、解禁日には、桂川の、合流と呼ばれている場所に釣りに入った。ここは、桂川の本流と杓尺流川(しゃくながし)が合流している、絶好の釣り場。ある年の解禁日、おっちゃんとその仲間、と一緒に合流に入った。
朝未だ暗い内から入り、釣場所を確保。解禁日には釣り人が多いため、良いポイントが多くある釣場所を確保する必要がある。明るくなってから昼頃までに、鱒や山女魚を、かなり釣った。
この時、しいさんと言う人がいて、あるポイントで、大きな魚を掛け、グイグイ、右や左に引っ張られて、なかなか上がらない。「しいさん、右だ右だ左だ左、竿を立てて、引っ張れ、のされるな、負けるな、がんばれ」夢中で、掛け声をかけた。
やっとの思いで、上がったのは、40センチ余りの虹鱒であった。この位の虹鱒は、解禁当初は良く釣れるものであるが、しいさんの手は震えていた。
午後からは、皆で道志の小さな名もない様な沢に行き、ここでも、山女魚がかなり釣れ、楽しい思いをした。夢中で釣りをしたのは良いが、岩の上から川の中へ、落ちてしまい、バカ長靴の中に、水が入ってしまい、その冷たいこと、非常に寒い思いをした。それでも更に釣りを続け、やっとの思いで家に帰り、すぐ風呂に入り、ホッとしたのを、おぼえている。
釣り仲間の間で、虹鱒は、余り人気がない。又、釣ると馬鹿にされる事がある。と言うのも、虹鱒と言うのは、ほとんどが放流物で、素人でも、比較的簡単に釣れ、余り稀少価値が無いからである。
又、食べても、そう美味しいものでは無い。但、中には、放流後、半年、一年、渓流の中で過ごし、ほとんど野生化したものもいる。こう言う虹鱒は、色も綺麗で、尻尾の先も、ピンと尖っている。食べても、肉が締まっていて、旨いものである。
この次の年の解禁日だと思うが、こんちゃんと二人で、合流に入り、この時も山女魚と虹鱒を大分釣った。この時は、かなり上流の方で、なるべく掛からないでと、願っていたにもかかわらず、45センチ位の虹鱒を掛けてしまい、やっとのことで取り込んだが、結局、竿を折られてしまった。
この時は、予備の竿を、持って行かなかったので、折れた箇所を、ひもで巻いて、応急処置をし、この折れた竿で、更に釣り続け、それでも2~3匹釣れたものである。解禁日には、まず、間違いなく釣れる。この次からは必ず予備の竿を持って行くこととした。
解禁のときは、まだ暗い内から、出掛けて行き、懐中電灯の明かりを頼りに、川辺に降り、釣場を確保し、明るくなるのを待つ。この待つ時間がとても永く、待ちきれずに、目印に蛍光塗料を付けたものを用い、未だ暗い水面に流すが、釣れる事はなかった。
焦ることはない。朝のこない夜は無いのであるから。・・・合流は、解禁当初は、絶好の釣場で、人も多く少しでも良い場所を確保するため、暗いうちから入るわけである。
他の人も負けじ、と入り込み、人によっては、夜中に入り、タイヤ等燃やして暖を取りながら徹夜する人も居るくらいで、ま、年一回のお祭りみたいの様なものである。僕は、この当時、解禁日には必ず、この合流に入ることにしていた。
3月1日あるいは15日の解禁日。これがウィ-クデイの場合は、会社から有給休暇を取って行く訳であるが、これが毎年毎年続くと、上司も呆れてほとんど公認と言うことになってしまった。ある年の解禁日は、かなりの量の雪が積もり、雪の中で釣りをしたこともある。釣れた山女魚や虹鱒が、積もった雪の上で踊っていたっけ。
三月と言っても、それは相当に寒く、顔は毛糸で作られたマスクで覆い防寒ズボンに防寒ジャンバ-を着、ほとんど、ブクブクに着膨れになった様な状態で、釣りをするのであるから、それは大変であり、はたから見れば、おかしな姿であったろう。
解禁の前日の夜程、楽しい日は無い。明日に遠足を控えた、子供の様である。竿、針、目印、重り、釣り糸、魚籠、長靴、ナイフ、エサ(いくら、みみず、ブド-虫)等々全部出して、忘れ物が無いかどうか何回も確認し仕掛けをせっせっと作る。実に楽しい作業であった。
マスクは赤と紺色の毛糸で作られたもので、鼻と口の所が開いていて、あとは、頭からすっぽり被れる様になっているもの。防寒着は淡い黄色のナイロン製で、ズボンと上着がセットになっているもので、防水加工がしてあるもの。
竿は、色々なものを使った。始めは、親父の形見の竹竿を。調べてみると、この竿はとても高価なことが判ったので、ほんの少ししか、使わなかった。その後グラスロッド、カ-ボンロッドへと変わって行く。
渓流釣りの解禁は、だいたい、三月始め頃からとなっているが、岐阜県愛知県寒狭川は2月1日、長野県は2月15日となっており、3月の解禁が待って居られず、愛知県の寒狭川や長野へ出掛けたこともある。
しかし、濡れた糸は凍り、濡れた石の上を歩くと、長靴の裏に貼ってある滑り止め用のフェルトが凍って、石にへばり付く程、寒く釣りどころでは無かった。
水が緩むまで待とうではないか! 気持ちは良く分かるが。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その6
第六章 「渓流釣りの解禁」
渓流釣りは、この当時、昭和50年(1975)、毎年、3月1日が解禁日になっており、冬にはこの日が来るのを、一日千秋の如く、首を長くして待っている訳である。
毎年、解禁日には、桂川の、合流と呼ばれている場所に釣りに入った。ここは、桂川の本流と杓尺流川(しゃくながし)が合流している、絶好の釣り場。ある年の解禁日、おっちゃんとその仲間、と一緒に合流に入った。
朝未だ暗い内から入り、釣場所を確保。解禁日には釣り人が多いため、良いポイントが多くある釣場所を確保する必要がある。明るくなってから昼頃までに、鱒や山女魚を、かなり釣った。
この時、しいさんと言う人がいて、あるポイントで、大きな魚を掛け、グイグイ、右や左に引っ張られて、なかなか上がらない。「しいさん、右だ右だ左だ左、竿を立てて、引っ張れ、のされるな、負けるな、がんばれ」夢中で、掛け声をかけた。
やっとの思いで、上がったのは、40センチ余りの虹鱒であった。この位の虹鱒は、解禁当初は良く釣れるものであるが、しいさんの手は震えていた。
午後からは、皆で道志の小さな名もない様な沢に行き、ここでも、山女魚がかなり釣れ、楽しい思いをした。夢中で釣りをしたのは良いが、岩の上から川の中へ、落ちてしまい、バカ長靴の中に、水が入ってしまい、その冷たいこと、非常に寒い思いをした。それでも更に釣りを続け、やっとの思いで家に帰り、すぐ風呂に入り、ホッとしたのを、おぼえている。
釣り仲間の間で、虹鱒は、余り人気がない。又、釣ると馬鹿にされる事がある。と言うのも、虹鱒と言うのは、ほとんどが放流物で、素人でも、比較的簡単に釣れ、余り稀少価値が無いからである。
又、食べても、そう美味しいものでは無い。但、中には、放流後、半年、一年、渓流の中で過ごし、ほとんど野生化したものもいる。こう言う虹鱒は、色も綺麗で、尻尾の先も、ピンと尖っている。食べても、肉が締まっていて、旨いものである。
この次の年の解禁日だと思うが、こんちゃんと二人で、合流に入り、この時も山女魚と虹鱒を大分釣った。この時は、かなり上流の方で、なるべく掛からないでと、願っていたにもかかわらず、45センチ位の虹鱒を掛けてしまい、やっとのことで取り込んだが、結局、竿を折られてしまった。
この時は、予備の竿を、持って行かなかったので、折れた箇所を、ひもで巻いて、応急処置をし、この折れた竿で、更に釣り続け、それでも2~3匹釣れたものである。解禁日には、まず、間違いなく釣れる。この次からは必ず予備の竿を持って行くこととした。
解禁のときは、まだ暗い内から、出掛けて行き、懐中電灯の明かりを頼りに、川辺に降り、釣場を確保し、明るくなるのを待つ。この待つ時間がとても永く、待ちきれずに、目印に蛍光塗料を付けたものを用い、未だ暗い水面に流すが、釣れる事はなかった。
焦ることはない。朝のこない夜は無いのであるから。・・・合流は、解禁当初は、絶好の釣場で、人も多く少しでも良い場所を確保するため、暗いうちから入るわけである。
他の人も負けじ、と入り込み、人によっては、夜中に入り、タイヤ等燃やして暖を取りながら徹夜する人も居るくらいで、ま、年一回のお祭りみたいの様なものである。僕は、この当時、解禁日には必ず、この合流に入ることにしていた。
3月1日あるいは15日の解禁日。これがウィ-クデイの場合は、会社から有給休暇を取って行く訳であるが、これが毎年毎年続くと、上司も呆れてほとんど公認と言うことになってしまった。ある年の解禁日は、かなりの量の雪が積もり、雪の中で釣りをしたこともある。釣れた山女魚や虹鱒が、積もった雪の上で踊っていたっけ。
三月と言っても、それは相当に寒く、顔は毛糸で作られたマスクで覆い防寒ズボンに防寒ジャンバ-を着、ほとんど、ブクブクに着膨れになった様な状態で、釣りをするのであるから、それは大変であり、はたから見れば、おかしな姿であったろう。
解禁の前日の夜程、楽しい日は無い。明日に遠足を控えた、子供の様である。竿、針、目印、重り、釣り糸、魚籠、長靴、ナイフ、エサ(いくら、みみず、ブド-虫)等々全部出して、忘れ物が無いかどうか何回も確認し仕掛けをせっせっと作る。実に楽しい作業であった。
マスクは赤と紺色の毛糸で作られたもので、鼻と口の所が開いていて、あとは、頭からすっぽり被れる様になっているもの。防寒着は淡い黄色のナイロン製で、ズボンと上着がセットになっているもので、防水加工がしてあるもの。
竿は、色々なものを使った。始めは、親父の形見の竹竿を。調べてみると、この竿はとても高価なことが判ったので、ほんの少ししか、使わなかった。その後グラスロッド、カ-ボンロッドへと変わって行く。
渓流釣りの解禁は、だいたい、三月始め頃からとなっているが、岐阜県愛知県寒狭川は2月1日、長野県は2月15日となっており、3月の解禁が待って居られず、愛知県の寒狭川や長野へ出掛けたこともある。
しかし、濡れた糸は凍り、濡れた石の上を歩くと、長靴の裏に貼ってある滑り止め用のフェルトが凍って、石にへばり付く程、寒く釣りどころでは無かった。
水が緩むまで待とうではないか! 気持ちは良く分かるが。
〔山男魚〕
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2000年01月06日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 5」
95/10/13 22:57
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その5
第五章 「渓流釣りの師匠」
ある日、僕の職場に移って来た、おっちゃんに出会う。おっちゃんは、当時渓流釣りの名人で、この人に、渓流釣りを、教えてもらうことになる。おっちゃんに、最初に、連れて行ってもらったのは管野川支流の、白石沢の岩魚釣り。シマッピ-が同行。名の通り、白い石が、多くころがっている渓流で、水量はそう、多くないが、落差が大きな、非常に綺麗な渓。
とにかく、山道を車で行ける所まで入り、後は、獣道の様に狭い山道を、トコトコと三十分程歩いて、釣場へ着く。時期は、春五月(昭和48年頃)、周りには、山吹の黄色い小さな花が咲き乱れ、木々の緑も淡い緑色に染まって、近くでは、ウグイスや、名前も知らない鳥たちが鳴き、空は澄み、最も気持ちの良い季節であった。おっちゃんの後を、親父の形見の、二間半の竹竿と、木製の魚籠を持って付いて行く。
エサはナデムシ(カゲロウの幼虫、別名チョロムシ)。-- このナデムシを捕るのが、難しく、又、変っている。まず、タオルと、プラスチックの茶碗を用意する。川の流れの中に、丸くて、表面がつるつるしている様な、大きめな石を探す。水が、なるべく早く、石にぶつかって、流れている様な石が良いタオルを手に巻いて、これを濡らして、水の中で、この石の表面を撫でる。
これで、石の表面に、へばり付いていた虫がタオルに付いてくる。流れの中で片手にタオル、片手に茶碗を持っているので、両手がふさがっている。従って、捕った虫は、口で捕って、これを、茶碗に移す。舌の上に乗った虫の感触が気持ち悪い。こうして捕れた虫を、固く絞ったタオルの上に、ならべ、タオルをたたんで、出来上がり。撫でて、捕るので、タデムシと言う。
このナデムシの捕り方もおっちゃんに教えてもらった。-- 渓の流れに、小さな木の橋がかかっている。ここから、釣り登って行った。途中、小さな堰堤の下の、深みを見つけ、「おい、やおめちゃん、ここで竿を出してみろや、絶対に岩魚がいるずらよ」と言われ、おずおずと、針に、エサのナデムシを付けちょうちん仕掛けの、仕掛けをそっと振り込む。
沢は、木やヤブが多いので道糸の長さを、1~1.5メ-トルぐらい、極端に短くして、木やヤブに、仕掛けがからむのを防ぐ。丁度、ちょうちんをぶら下げている様な恰好に似ているので、これをちょうちん仕掛けと言う。又、渓流釣りでは、浮きの代わりに目印を使う。
目印はセルロイドに色を付けた物、水鳥の羽、煙草のフィルタ-等を使う。この時は、煙草のフィルタ-を、小さく切って使った。この目印が流れに乗って、流れて行き、巻き込みの所で、くるくると舞う。この時、手にグゥグゥ-と引く、当たりがあった。
「岩魚の場合、当たりがあっても、すぐに合わせてはいけない。岩魚が、エサを充分、喰え込んでから合わせろ」と聞かされていたが、この時は、頭に血が登ってしまい、そんな忠告はすっかり、忘れていた。岩魚が、グゥグゥ-と引く感触が、竿を通して、伝わってくる。竿を上げて見ると、23センチの岩魚。岩魚が空中で舞う。僕にとっては、生まれて始めて、釣った岩魚。やったぜ!
針は、ノド深くささって、簡単には、外せそうに無い。竿の穂先を抜いておっちゃんの所へ持っていき、「おっちゃん、やった、やった、やった、針、はずしてんねん、はずしてんねん、」(どう言う訳か、当時、ここでは、関西弁が流行っていた。)僕は、完全に興奮状態。頭の中や、体の中に、子供や少年の頃、持っていた、素晴らしい風が、吹き込んで来る様であった。すばらしかった。
木々は美しく、山椒の香りが漂い、山吹の黄色い花が咲き、木々を通してさしてくる光は矢の様であった。この時の、嬉しそうな、微笑みに満ちた、おっちゃんの顔が目に浮かぶ。 釣られた岩魚は針をのど深く飲み込んでおり、はずすのに一苦労、岩魚の歯は鋭く、ギザギザで、おっちゃんの指先は傷だらけになってしまった。
この様に、山深い渓では、竹のつなぎ竿は使いにくく、いちいちたたんで移動しなければならない。このため、すぐ、振出式の、4.5メ-トルの、グラスロッドを買いに行った。この当時は、まだ、カ-ボンロッドは登場しておらず、かなり重い竿であった。カ-ボンの登場は、この後、二年位経ってからであろうか。
この岩魚釣りを機に、毎日の様に、岩魚あるいは山女魚を狙って、時には、会社の始まる前の朝早く、時には、会社の終わった後の夕方、菅野川に、おっちゃんと一緒に通った。始めは、おっちゃんの魚籠持ちで、おっちゃんの後について、
「ホレ、こう言うふうに、流れが巻き込んでいる所がポイントっちゅうわけ」とか、
「エサはよう、こう言うふうに、流すと釣れるっちゅうわけ」
と目の前で、みごとに、25センチ位の、山女魚を釣って見せる。
こんな具合に、実習が始まり、2~3回、この様なことが続いた後、いよいよ一人で釣りをすることになった。菅野川中域の、道志に通ずる道沿いに、石垣があり、その石垣に、流れがぶつかり、良いポイントを造っている。エサのナデムシを、三匹つけて、流れの上の方へ、そおっと、流してやる。
目印が、水面から10~20センチ位上を、流れに乗って、静かに流れて行く。その目印が急に止まってしまった。「おかしいぞ、何か、おかしいぞ」・・・「針が石にでも、引っ掛かってしまったんだろうか?」一人呟く。
「とにかく、竿を上げて見よう」とばかりに、竿を上げ始めて見ると途中で魚が掛かった確かな手応えを感じる。上げて見ると、何と、20センチ余りのきれいな山女魚が掛かっているではないか。山女魚を手にした、手がふるえていた。これが始めての山女魚である。これから、気が狂った様に、菅野川通いが始まった。
管野川の上流近くに、こおさんと言う、おっちゃんの友人がいた。こおさんも渓流釣りの名人で、毛針を振らしたら、この辺では、この人の右に出る人は居ない、と言う人物で、半分農業、半分プレス作業等の内職、をしていた。
この、こおさんからも、釣りの事を、色々教えてもらったり、「今日は、上より下の方が良いずら」とか「今日は、池の鯉が騒いでいるから、当たりは多いぞよ」とか「昨日は、前のドンドンで、誰々がでかいのを、釣ったぞよ」とかの情報を、教えてもらった。
時には、釣りの前、時には釣りの途中、時には釣りの終わった後に、こおさんの家に寄り、奥さんにお茶やお茶代わりにお酒、等だしてもらったものである。おっちゃんにしてもこおさんにしても、酒が飯より好き、と言うタイプの人種。
ある時、釣りに入る前、おっちゃんと二人で、「釣りの状況を聞こう」と朝早く、こおさんの家に寄ったことがある。 「昨日、雨がふって、水量が増えているし、水が濁っているんで、今日、エサはミミズがいいずら。おらんちの家から、二百メ-タ-ばか下ったとこから、釣り登ってくればいいべ」とこおさん。
「よし!・・・ 水量、ササニゴリ、今日は大物が出そうだ」と内心思った僕等が、早速出掛けようとすると、「そんなに、あわてなくてもいいずらまだ早いから、お茶代わりに一杯ひっかけてから、いけや」と言うわけで、朝早くから、酒盛りが始まってしまい、飲んだくれて、釣りどころではなくなってしまった。結局、夕方まで、寝かせてもらって、家に帰ったこともあった。
この間に、聞かせてもらった、渓流の話、怪談じみた話。例えば、・・こおさんの家から、十分ばかり歩いた所に「かっちゃぁ石」と言う、縦3メ-トル横五メ-トル程の、大きな石があり、この石に流れがぶつかって、水量、流れとも申し分ない良い淵を造っている。 ここは、夕方から夜にかけて、大物がつれる有名なポイント。
ある日、こおさんは、このポイントに、夜釣りに行き大物を含めて、かなり釣った。「さて、帰ろうべぇ」と魚籠を持って、帰ろうとしたが、あたりは真っ暗。小さな懐中電灯の明かりを頼りに、山道を家路に急ぐ。トコトコと歩いていると、どうも姿は、はっきりしないが、若い娘がついてくる。
立ち止まって、振り返ると、娘も止まる。気色が悪くなって、足を早めた途端、その娘が急に近づいてきて、なんとも、はや、恐ろしい形相で、「魚、おいてけ、魚、おいてけ-、魚、おいてけぇ-」と叫びつつ、今にも、飛び掛からんとしている。 こおさんは、腰が抜ける程、びっくりし、あわてて、魚籠を放りだし、逃げて帰った。
翌朝、その場所へ行って見ると、食い荒らした魚が散らばっており、どうやら、これは、狐の仕業であったらしい、と言うことがわかった。(これは本当にあった話の様で同じ様な目にあっている人が何人かいた。)
・・この話をきいてから、一人で夜釣りに行くのはやめにした。その他、山深くで、山姥にあった話。太さが20センチ位あり、胴から下半分が無く、その切れ目が、カサブタが固まった様になっている「グリグリ」と呼ばれる、蛇の話。
その他、色々な渓流釣りのこと、山や渓に咲く花、山菜、毒草、たぬき、狐、むささび、昆虫、等、動物や植物の話を、聞き飽きる事はなかった。実に楽しい一時であった。
仕事のこと、これから、過ごして行かねばならない人生社会や政治、もやもやしたことは、全て忘れてしまえた。おっちゃんにしてもこおさんにしても、それぞれの人生を抱えて生きていたと思うが、この時は、全て忘れていた様に思える。
岩魚や山女魚の、渓流釣りの魅力に取りつかれ、毎週末になると、早起きし管野川へ通う。ベレット1600GTに乗って。この車は、スポ-ツタイプの車で、車高が低く、釣りには、およそ似合わない車であったが良く活躍した。
渓流沿いの山道を、林道だろうが、凸凹道だろうが、かまわずドンドン走っものだから、マフラ-は折れるは、床に穴が開きそうになるは、石にぶつかってバンパ-は曲がるは、ブッシュでボディには傷がつくやら、可哀そうな目に合わせてしまい、申し訳なかったが、この酷使に、充分に耐えたタフな車であった。--今でも、山道に駐車した、ベレットの写真が残っている。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その5
第五章 「渓流釣りの師匠」
ある日、僕の職場に移って来た、おっちゃんに出会う。おっちゃんは、当時渓流釣りの名人で、この人に、渓流釣りを、教えてもらうことになる。おっちゃんに、最初に、連れて行ってもらったのは管野川支流の、白石沢の岩魚釣り。シマッピ-が同行。名の通り、白い石が、多くころがっている渓流で、水量はそう、多くないが、落差が大きな、非常に綺麗な渓。
とにかく、山道を車で行ける所まで入り、後は、獣道の様に狭い山道を、トコトコと三十分程歩いて、釣場へ着く。時期は、春五月(昭和48年頃)、周りには、山吹の黄色い小さな花が咲き乱れ、木々の緑も淡い緑色に染まって、近くでは、ウグイスや、名前も知らない鳥たちが鳴き、空は澄み、最も気持ちの良い季節であった。おっちゃんの後を、親父の形見の、二間半の竹竿と、木製の魚籠を持って付いて行く。
エサはナデムシ(カゲロウの幼虫、別名チョロムシ)。-- このナデムシを捕るのが、難しく、又、変っている。まず、タオルと、プラスチックの茶碗を用意する。川の流れの中に、丸くて、表面がつるつるしている様な、大きめな石を探す。水が、なるべく早く、石にぶつかって、流れている様な石が良いタオルを手に巻いて、これを濡らして、水の中で、この石の表面を撫でる。
これで、石の表面に、へばり付いていた虫がタオルに付いてくる。流れの中で片手にタオル、片手に茶碗を持っているので、両手がふさがっている。従って、捕った虫は、口で捕って、これを、茶碗に移す。舌の上に乗った虫の感触が気持ち悪い。こうして捕れた虫を、固く絞ったタオルの上に、ならべ、タオルをたたんで、出来上がり。撫でて、捕るので、タデムシと言う。
このナデムシの捕り方もおっちゃんに教えてもらった。-- 渓の流れに、小さな木の橋がかかっている。ここから、釣り登って行った。途中、小さな堰堤の下の、深みを見つけ、「おい、やおめちゃん、ここで竿を出してみろや、絶対に岩魚がいるずらよ」と言われ、おずおずと、針に、エサのナデムシを付けちょうちん仕掛けの、仕掛けをそっと振り込む。
沢は、木やヤブが多いので道糸の長さを、1~1.5メ-トルぐらい、極端に短くして、木やヤブに、仕掛けがからむのを防ぐ。丁度、ちょうちんをぶら下げている様な恰好に似ているので、これをちょうちん仕掛けと言う。又、渓流釣りでは、浮きの代わりに目印を使う。
目印はセルロイドに色を付けた物、水鳥の羽、煙草のフィルタ-等を使う。この時は、煙草のフィルタ-を、小さく切って使った。この目印が流れに乗って、流れて行き、巻き込みの所で、くるくると舞う。この時、手にグゥグゥ-と引く、当たりがあった。
「岩魚の場合、当たりがあっても、すぐに合わせてはいけない。岩魚が、エサを充分、喰え込んでから合わせろ」と聞かされていたが、この時は、頭に血が登ってしまい、そんな忠告はすっかり、忘れていた。岩魚が、グゥグゥ-と引く感触が、竿を通して、伝わってくる。竿を上げて見ると、23センチの岩魚。岩魚が空中で舞う。僕にとっては、生まれて始めて、釣った岩魚。やったぜ!
針は、ノド深くささって、簡単には、外せそうに無い。竿の穂先を抜いておっちゃんの所へ持っていき、「おっちゃん、やった、やった、やった、針、はずしてんねん、はずしてんねん、」(どう言う訳か、当時、ここでは、関西弁が流行っていた。)僕は、完全に興奮状態。頭の中や、体の中に、子供や少年の頃、持っていた、素晴らしい風が、吹き込んで来る様であった。すばらしかった。
木々は美しく、山椒の香りが漂い、山吹の黄色い花が咲き、木々を通してさしてくる光は矢の様であった。この時の、嬉しそうな、微笑みに満ちた、おっちゃんの顔が目に浮かぶ。 釣られた岩魚は針をのど深く飲み込んでおり、はずすのに一苦労、岩魚の歯は鋭く、ギザギザで、おっちゃんの指先は傷だらけになってしまった。
この様に、山深い渓では、竹のつなぎ竿は使いにくく、いちいちたたんで移動しなければならない。このため、すぐ、振出式の、4.5メ-トルの、グラスロッドを買いに行った。この当時は、まだ、カ-ボンロッドは登場しておらず、かなり重い竿であった。カ-ボンの登場は、この後、二年位経ってからであろうか。
この岩魚釣りを機に、毎日の様に、岩魚あるいは山女魚を狙って、時には、会社の始まる前の朝早く、時には、会社の終わった後の夕方、菅野川に、おっちゃんと一緒に通った。始めは、おっちゃんの魚籠持ちで、おっちゃんの後について、
「ホレ、こう言うふうに、流れが巻き込んでいる所がポイントっちゅうわけ」とか、
「エサはよう、こう言うふうに、流すと釣れるっちゅうわけ」
と目の前で、みごとに、25センチ位の、山女魚を釣って見せる。
こんな具合に、実習が始まり、2~3回、この様なことが続いた後、いよいよ一人で釣りをすることになった。菅野川中域の、道志に通ずる道沿いに、石垣があり、その石垣に、流れがぶつかり、良いポイントを造っている。エサのナデムシを、三匹つけて、流れの上の方へ、そおっと、流してやる。
目印が、水面から10~20センチ位上を、流れに乗って、静かに流れて行く。その目印が急に止まってしまった。「おかしいぞ、何か、おかしいぞ」・・・「針が石にでも、引っ掛かってしまったんだろうか?」一人呟く。
「とにかく、竿を上げて見よう」とばかりに、竿を上げ始めて見ると途中で魚が掛かった確かな手応えを感じる。上げて見ると、何と、20センチ余りのきれいな山女魚が掛かっているではないか。山女魚を手にした、手がふるえていた。これが始めての山女魚である。これから、気が狂った様に、菅野川通いが始まった。
管野川の上流近くに、こおさんと言う、おっちゃんの友人がいた。こおさんも渓流釣りの名人で、毛針を振らしたら、この辺では、この人の右に出る人は居ない、と言う人物で、半分農業、半分プレス作業等の内職、をしていた。
この、こおさんからも、釣りの事を、色々教えてもらったり、「今日は、上より下の方が良いずら」とか「今日は、池の鯉が騒いでいるから、当たりは多いぞよ」とか「昨日は、前のドンドンで、誰々がでかいのを、釣ったぞよ」とかの情報を、教えてもらった。
時には、釣りの前、時には釣りの途中、時には釣りの終わった後に、こおさんの家に寄り、奥さんにお茶やお茶代わりにお酒、等だしてもらったものである。おっちゃんにしてもこおさんにしても、酒が飯より好き、と言うタイプの人種。
ある時、釣りに入る前、おっちゃんと二人で、「釣りの状況を聞こう」と朝早く、こおさんの家に寄ったことがある。 「昨日、雨がふって、水量が増えているし、水が濁っているんで、今日、エサはミミズがいいずら。おらんちの家から、二百メ-タ-ばか下ったとこから、釣り登ってくればいいべ」とこおさん。
「よし!・・・ 水量、ササニゴリ、今日は大物が出そうだ」と内心思った僕等が、早速出掛けようとすると、「そんなに、あわてなくてもいいずらまだ早いから、お茶代わりに一杯ひっかけてから、いけや」と言うわけで、朝早くから、酒盛りが始まってしまい、飲んだくれて、釣りどころではなくなってしまった。結局、夕方まで、寝かせてもらって、家に帰ったこともあった。
この間に、聞かせてもらった、渓流の話、怪談じみた話。例えば、・・こおさんの家から、十分ばかり歩いた所に「かっちゃぁ石」と言う、縦3メ-トル横五メ-トル程の、大きな石があり、この石に流れがぶつかって、水量、流れとも申し分ない良い淵を造っている。 ここは、夕方から夜にかけて、大物がつれる有名なポイント。
ある日、こおさんは、このポイントに、夜釣りに行き大物を含めて、かなり釣った。「さて、帰ろうべぇ」と魚籠を持って、帰ろうとしたが、あたりは真っ暗。小さな懐中電灯の明かりを頼りに、山道を家路に急ぐ。トコトコと歩いていると、どうも姿は、はっきりしないが、若い娘がついてくる。
立ち止まって、振り返ると、娘も止まる。気色が悪くなって、足を早めた途端、その娘が急に近づいてきて、なんとも、はや、恐ろしい形相で、「魚、おいてけ、魚、おいてけ-、魚、おいてけぇ-」と叫びつつ、今にも、飛び掛からんとしている。 こおさんは、腰が抜ける程、びっくりし、あわてて、魚籠を放りだし、逃げて帰った。
翌朝、その場所へ行って見ると、食い荒らした魚が散らばっており、どうやら、これは、狐の仕業であったらしい、と言うことがわかった。(これは本当にあった話の様で同じ様な目にあっている人が何人かいた。)
・・この話をきいてから、一人で夜釣りに行くのはやめにした。その他、山深くで、山姥にあった話。太さが20センチ位あり、胴から下半分が無く、その切れ目が、カサブタが固まった様になっている「グリグリ」と呼ばれる、蛇の話。
その他、色々な渓流釣りのこと、山や渓に咲く花、山菜、毒草、たぬき、狐、むささび、昆虫、等、動物や植物の話を、聞き飽きる事はなかった。実に楽しい一時であった。
仕事のこと、これから、過ごして行かねばならない人生社会や政治、もやもやしたことは、全て忘れてしまえた。おっちゃんにしてもこおさんにしても、それぞれの人生を抱えて生きていたと思うが、この時は、全て忘れていた様に思える。
岩魚や山女魚の、渓流釣りの魅力に取りつかれ、毎週末になると、早起きし管野川へ通う。ベレット1600GTに乗って。この車は、スポ-ツタイプの車で、車高が低く、釣りには、およそ似合わない車であったが良く活躍した。
渓流沿いの山道を、林道だろうが、凸凹道だろうが、かまわずドンドン走っものだから、マフラ-は折れるは、床に穴が開きそうになるは、石にぶつかってバンパ-は曲がるは、ブッシュでボディには傷がつくやら、可哀そうな目に合わせてしまい、申し訳なかったが、この酷使に、充分に耐えたタフな車であった。--今でも、山道に駐車した、ベレットの写真が残っている。
〔山男魚〕
Posted by nakano3 at
20:40
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2000年01月05日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 4」
95/10/13 16:26
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その4
第四章 「渓流の魅力」
昭和47年(1972年)に、山梨県都留市にある製造子会社に出向となり山梨勤務となる。本格的に釣りが好きになり、熱中し始めたのはこの頃である。都留市に転勤になっって始めに住んだアパ-トの裏に桂川の本流が流れておりここは鮎、鱒、山女魚等の好釣り場。
又、近くには、菅野川、鹿留川、杓尺流川、玉川、盛里川、朝日川、白石沢、大沢、等々好釣場のあることを、順次、知ることになる。都留市に行った当初は、同じ時期、出向となった、シマッピ-やヒデ君とアパ-トの裏の桂川で、昔、親父に教えてもらった仕掛けで、エサは黒川虫(ゴロタ)を使って、アブラハヤやウグイを釣ったりして遊んだものである。
玉浮きを使った、流し釣り仕掛け、いたって単純な仕掛けで、比較的流れのゆるやかな場所に、仕掛けを流し、浮きでアタリをとって釣る。気持ち良いぐらいに、浮きが消し込まれ、あわてて合わせるが、なかなか釣れない。
アブラハヤやウグイは、口が、比較的小さく、一気にエサを飲み込もうとはせず、一度喰わえてから、徐々飲み込んで行き、又、口の中に変な感触があると、吐き出してしまうものと思える。従って、合わせが早いと喰い込みが浅くて針掛かりせず、逆に遅いと、エサを取られてしまうだけで、これまた、針掛かりしない。
時と場合によって異なるが、一般的にには、浮きがポンポンと二回ばかり沈んで、その後、浮きが、ぐうっ-と、引き込まれたら、合わせるのが良い。そうこうしている内に、合わせのタイミングをつかみ、なんとか釣れる様になる。
天気が良く、爽やかな日には、妻、長女、まだ赤ちゃんだった次女を乳母車に乗せ、(三女はまだ生まれていなかった)家族全員、ピクニック気分で、竿を担いで出掛けたものである。春もたけなわになると、空は淡く、空気は爽やかで、水の流れは清らかで、周りには、山吹や、富士桜が咲き、それはとても良いものであった。
アブラハヤとか、ウグイと言う魚は、煮ても、焼いても、あまり旨い魚ではなく、好んで食べることはなかった。ただ、アブラハヤは、料理方法によっては、美味しく食べることができる。
ある時、会社の仲間と、渓流で、アブラハヤを釣って、釣りたてを、天ぷら或いはフライにして、これを肴にビ-ルでも飲んで騒ごう。「川原で天ぷらパ-ティをやろう!」と悪い相談がまとまった。
ある休日を選んで、五、六人の仲間が集まり、比較的、きれいな流れの場所を選び、ガスバ-ナ-と天ぷら鍋、油、ビ-ル等々、持ち込んで、パ-ティが始まった。玉浮き仕掛けで、緩い流れに流してやると、すぐにアタリがあって七から十センチぐらいのハヤッコが、次々に釣れる。
釣ったハヤッコの腹を割いて、内臓を取り除き、ビニ-ル袋にうどん粉と魚を入れ、かき回して、魚にうどん粉をまぶし、熱くなった油の中に、放り込む二、三分で、からり、と揚がる。醤油を少しつけてたべる。その旨いこと。「うめぇ、うめぇ! ビ-ルのつまみとしては最高だ」と感激。
こう言う雰囲気の中で食べるものは、何でも美味しいものであるが、これは本当に旨かった。大きい魚より、七、八センチの、小さな魚の方が苦みが少なく、旨かった。味はワカサギの唐揚げに似ている。いや、むしろワカサギより旨いかも知れない。いやぁ、とにかく旨かった。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その4
第四章 「渓流の魅力」
昭和47年(1972年)に、山梨県都留市にある製造子会社に出向となり山梨勤務となる。本格的に釣りが好きになり、熱中し始めたのはこの頃である。都留市に転勤になっって始めに住んだアパ-トの裏に桂川の本流が流れておりここは鮎、鱒、山女魚等の好釣り場。
又、近くには、菅野川、鹿留川、杓尺流川、玉川、盛里川、朝日川、白石沢、大沢、等々好釣場のあることを、順次、知ることになる。都留市に行った当初は、同じ時期、出向となった、シマッピ-やヒデ君とアパ-トの裏の桂川で、昔、親父に教えてもらった仕掛けで、エサは黒川虫(ゴロタ)を使って、アブラハヤやウグイを釣ったりして遊んだものである。
玉浮きを使った、流し釣り仕掛け、いたって単純な仕掛けで、比較的流れのゆるやかな場所に、仕掛けを流し、浮きでアタリをとって釣る。気持ち良いぐらいに、浮きが消し込まれ、あわてて合わせるが、なかなか釣れない。
アブラハヤやウグイは、口が、比較的小さく、一気にエサを飲み込もうとはせず、一度喰わえてから、徐々飲み込んで行き、又、口の中に変な感触があると、吐き出してしまうものと思える。従って、合わせが早いと喰い込みが浅くて針掛かりせず、逆に遅いと、エサを取られてしまうだけで、これまた、針掛かりしない。
時と場合によって異なるが、一般的にには、浮きがポンポンと二回ばかり沈んで、その後、浮きが、ぐうっ-と、引き込まれたら、合わせるのが良い。そうこうしている内に、合わせのタイミングをつかみ、なんとか釣れる様になる。
天気が良く、爽やかな日には、妻、長女、まだ赤ちゃんだった次女を乳母車に乗せ、(三女はまだ生まれていなかった)家族全員、ピクニック気分で、竿を担いで出掛けたものである。春もたけなわになると、空は淡く、空気は爽やかで、水の流れは清らかで、周りには、山吹や、富士桜が咲き、それはとても良いものであった。
アブラハヤとか、ウグイと言う魚は、煮ても、焼いても、あまり旨い魚ではなく、好んで食べることはなかった。ただ、アブラハヤは、料理方法によっては、美味しく食べることができる。
ある時、会社の仲間と、渓流で、アブラハヤを釣って、釣りたてを、天ぷら或いはフライにして、これを肴にビ-ルでも飲んで騒ごう。「川原で天ぷらパ-ティをやろう!」と悪い相談がまとまった。
ある休日を選んで、五、六人の仲間が集まり、比較的、きれいな流れの場所を選び、ガスバ-ナ-と天ぷら鍋、油、ビ-ル等々、持ち込んで、パ-ティが始まった。玉浮き仕掛けで、緩い流れに流してやると、すぐにアタリがあって七から十センチぐらいのハヤッコが、次々に釣れる。
釣ったハヤッコの腹を割いて、内臓を取り除き、ビニ-ル袋にうどん粉と魚を入れ、かき回して、魚にうどん粉をまぶし、熱くなった油の中に、放り込む二、三分で、からり、と揚がる。醤油を少しつけてたべる。その旨いこと。「うめぇ、うめぇ! ビ-ルのつまみとしては最高だ」と感激。
こう言う雰囲気の中で食べるものは、何でも美味しいものであるが、これは本当に旨かった。大きい魚より、七、八センチの、小さな魚の方が苦みが少なく、旨かった。味はワカサギの唐揚げに似ている。いや、むしろワカサギより旨いかも知れない。いやぁ、とにかく旨かった。
〔山男魚〕
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2000年01月04日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 3」
95/10/13 16:22
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その3
第三章 「学生から社会人」
高校時代には、釣りをした記憶が無い。釣りよりもむしろ、多くの若者と同じく、自動車やバイクいじり、ラジオ、カメラ、オ-ディオ、等に夢中になっていた。父は僕が高校二年の時、59才の年で、他界してしまい、この位の年頃は父親と一緒に行動したがらないものであるが、こんなことなら、もっと一緒に、釣りに行っておけば良かった、と悔やまれる。
大学時代も、余り、釣りに狂うと云うことはなかった。大学は、福島県の郡山市にあり、下宿から歩いて、三十分くらいの所に、阿武隈川の支流の、確か、矢作川という名の、川だったと思うが二回くらい、出掛けて、ハヤなど、釣ったのを、憶えている。
後年、山女魚や岩魚釣りに狂うことが、この時、判っていれば、時間はいくらでもあったのであるから、もっと、いろいろな所へ釣りに、行っておけばよかった。損した気分である。
大学を出て、名古屋の会社に就職、独身時代は、独身寮で暮らした。朝、昼晩の飯と、風呂と、寝る所は、確保されていた。朝晩、食事を作ってくれる、食堂の料理人の、六さんは釣りが好き。
ある時、寮の食堂で、夕飯を食べていると、六さんが、シェフ姿に、高下駄の恰好で、やってきて、「おい、夜釣りで、いっぴゃ-魚が釣れる穴場があるけんど、一緒に行こみゃ-か、今晩これから」--「もちろん、行くよ! 行こみゃ-」
というふうに夜釣りに一緒に行こうと話がまとまり、あわてて、近くの、雁道の、釣り道具屋に、飛んで行って釣り道具を揃え、四日市の何とか云う堤防へ、六さん、同じ寮に居た秋さん、僕の三人で出掛けて徹夜の釣りをしたことがある
狙いはクロダイ。穴場とは聞いていたが、釣り人の多いこと。穴場とは、えてしてこうしたものであるが、釣果は、惨憺たるもので、僕が、掌くらいの小さいのを一匹、六さんは坊主、秋さんも坊主。釣ってきた、ただ一匹のチンタを、六さんが、塩焼きに、料理してくれた。釣りに行って、一匹釣れるのと、釣れないのでは、物理的にも、精神的にも、大きな差がある。秋さんを、「1と0では、無限大の差があるんだぞ」と、からかったものである。
競馬でよく、大穴を当てていた、彼も、この時は、真剣になって、悔しがっていた。ただ、堤防から、対岸に見える、電灯の光の波が色とりどりできれいであった。
会社では、当初、開発関係の部署に勤務し、ファインセラミックの開発等に従事した。昭和45年に、同じ会社の、研究所に勤務していた、今の妻(こう言う言い方は変かな? 別に前に妻がいた訳では無い)と恋愛関係に陥り、めでたく結婚し、現在に至っている訳であるが、この話は、別の機会に譲るとする。
この時期、同じ課の飯さん、バンさん、ヒデ君、と僕の4人で、「何処か、あまり人の居ないところへ、釣りにでも行こうか」と云う様な、話が持ち上がり、それじゃ、「日本海めざして行ってみようではないか」と言うことになった。
一泊二日の日程を組み、ベレット1600GTの狭い車内に、4人乗り込み4人で、運転を交代しながら、5~6時間かけて、日本海の見える所へ、到着した。
もっと、釣り場の情報等、調べて行けば良かったのであろうが、行き当たりばったりで、東尋坊やら、三方五湖やら、とにかく、竿の出せる所であれば、どこでもかまわず、釣りをしてみたが、結局、一回のアタリも無く、一匹の魚を見ることも無く、むなしく帰ってきた。
女房には、笑われるわ、悔しいやら、散々であった。しかし、生まれて始めて日本海と言うものを見、琵琶湖を通って、日本海に至る、ドライブ、それは楽しいものであった。
飯さんとは、年賀状をやりとりしたり、一年か二年に一回会うかどうか、であるが数年前に聞いた話では、知多の海等で、アイナメ等、釣りに行っているらしい。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その3
第三章 「学生から社会人」
高校時代には、釣りをした記憶が無い。釣りよりもむしろ、多くの若者と同じく、自動車やバイクいじり、ラジオ、カメラ、オ-ディオ、等に夢中になっていた。父は僕が高校二年の時、59才の年で、他界してしまい、この位の年頃は父親と一緒に行動したがらないものであるが、こんなことなら、もっと一緒に、釣りに行っておけば良かった、と悔やまれる。
大学時代も、余り、釣りに狂うと云うことはなかった。大学は、福島県の郡山市にあり、下宿から歩いて、三十分くらいの所に、阿武隈川の支流の、確か、矢作川という名の、川だったと思うが二回くらい、出掛けて、ハヤなど、釣ったのを、憶えている。
後年、山女魚や岩魚釣りに狂うことが、この時、判っていれば、時間はいくらでもあったのであるから、もっと、いろいろな所へ釣りに、行っておけばよかった。損した気分である。
大学を出て、名古屋の会社に就職、独身時代は、独身寮で暮らした。朝、昼晩の飯と、風呂と、寝る所は、確保されていた。朝晩、食事を作ってくれる、食堂の料理人の、六さんは釣りが好き。
ある時、寮の食堂で、夕飯を食べていると、六さんが、シェフ姿に、高下駄の恰好で、やってきて、「おい、夜釣りで、いっぴゃ-魚が釣れる穴場があるけんど、一緒に行こみゃ-か、今晩これから」--「もちろん、行くよ! 行こみゃ-」
というふうに夜釣りに一緒に行こうと話がまとまり、あわてて、近くの、雁道の、釣り道具屋に、飛んで行って釣り道具を揃え、四日市の何とか云う堤防へ、六さん、同じ寮に居た秋さん、僕の三人で出掛けて徹夜の釣りをしたことがある
狙いはクロダイ。穴場とは聞いていたが、釣り人の多いこと。穴場とは、えてしてこうしたものであるが、釣果は、惨憺たるもので、僕が、掌くらいの小さいのを一匹、六さんは坊主、秋さんも坊主。釣ってきた、ただ一匹のチンタを、六さんが、塩焼きに、料理してくれた。釣りに行って、一匹釣れるのと、釣れないのでは、物理的にも、精神的にも、大きな差がある。秋さんを、「1と0では、無限大の差があるんだぞ」と、からかったものである。
競馬でよく、大穴を当てていた、彼も、この時は、真剣になって、悔しがっていた。ただ、堤防から、対岸に見える、電灯の光の波が色とりどりできれいであった。
会社では、当初、開発関係の部署に勤務し、ファインセラミックの開発等に従事した。昭和45年に、同じ会社の、研究所に勤務していた、今の妻(こう言う言い方は変かな? 別に前に妻がいた訳では無い)と恋愛関係に陥り、めでたく結婚し、現在に至っている訳であるが、この話は、別の機会に譲るとする。
この時期、同じ課の飯さん、バンさん、ヒデ君、と僕の4人で、「何処か、あまり人の居ないところへ、釣りにでも行こうか」と云う様な、話が持ち上がり、それじゃ、「日本海めざして行ってみようではないか」と言うことになった。
一泊二日の日程を組み、ベレット1600GTの狭い車内に、4人乗り込み4人で、運転を交代しながら、5~6時間かけて、日本海の見える所へ、到着した。
もっと、釣り場の情報等、調べて行けば良かったのであろうが、行き当たりばったりで、東尋坊やら、三方五湖やら、とにかく、竿の出せる所であれば、どこでもかまわず、釣りをしてみたが、結局、一回のアタリも無く、一匹の魚を見ることも無く、むなしく帰ってきた。
女房には、笑われるわ、悔しいやら、散々であった。しかし、生まれて始めて日本海と言うものを見、琵琶湖を通って、日本海に至る、ドライブ、それは楽しいものであった。
飯さんとは、年賀状をやりとりしたり、一年か二年に一回会うかどうか、であるが数年前に聞いた話では、知多の海等で、アイナメ等、釣りに行っているらしい。
〔山男魚〕
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2000年01月03日
山男魚 「鶴見川からモントレーへ 2」
95/10/12 11:51
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その2
第二章 「父と少年の釣り」
鶴見川でのハゼ釣り以降、釣りと云うものが好きになり、小学校から中学校にかけては、従兄弟ちゃんと二人で鶴見の三つ池、二つ池、鶴見川の上流で釣りを楽しんだが、余り釣れたことはなかった。三つ池でダボハゼが、二つ池でクチボソが、釣れた程度であった。但、近くのどぶ川で、糸みみずや縞みみずを取ったり、ダボハゼを釣ってきて、これを焼いて猫に食べさせたりしたり、釣りの代わりにざりがにを捕ってみたり、池や川の斜面で寝そべってみたり、釣り以外にも楽しいことが多くあった。
鶴見川の上流も、当時はまだまだきれいで、川の近くは田んぼばかりで、野の草も、景色も、とても清々しいものであった。川では、ミミズをエサに棒浮きを使って、流し釣りをしたがほとんどゼロと云って良い程、釣果はなかった。川の流れの上を浮きが流れて行く情景が、今でも克明に、瞼の裏に残っている。竿は3本繋ぎの竹竿を、確か三十円か五十円かで、従兄弟ちゃんと二人で、近くの駄菓子屋さんみたいな所で買い込み、大事な宝物として持っていた。正月のお年玉が百円位の時代であったから、当時の子供としては高い買い物であったに違いない。
父は、釣り道具に関しては、非常な凝り性で、戦前に東作などに注文して作らせた高級な竹竿を沢山持っていて、大事に保管してあった。幸い、空襲で焼ける事もなく、今では父の形見として、僕が持っている。主として渓流竿が多い。
父には、良く酒匂川(小田原)にヤマベ釣りに連れて行ってもらった。田んぼには、蓮華の花がいっぱいで、菜の花も咲き乱れている頃、連れて行ってもらったものである。玉浮きを付けた流し釣りで、エサはサシ。釣りの行く前の夜、テグスを湿らせて、引っ張っては強さを確かめ、又、引っ張っては強さを確かめ、何本かつないで、道糸をつくっていた。当時、まだナイロン糸は、出回っていなかったのであろうか。小さなハサミで、切ってはつなぎ、切ってはつなぎしているのを、側でじ-っとみていたものである。糸の結び方、釣り針への結び方、浮きの付け方等、教えてもらったが、子供の僕にとってはとても難しく、なかなか覚えきれなかった。でも、父と二人で黙々と仕掛けを作るのは実に楽しかった。
この時、父は、僕に釣り竿を、僕専用に、「だいじに使うのだよ」と渓流竿一本(二間半の竹竿)と、海小物用の、竿一本(一間半の竹竿)の二本くれた。うれしかったな! いまでも、この渓流竿は大切に保管してある。海用の竿は、長いこと使っている内に先端が折れてしまったので、そのままどこかへいってしまった。釣った魚は蓬の葉っぱといっしょに、魚籠に入れて置くと長持ちする、と教えてくれたのも父。笹の葉と一緒でも良い。釣りとは余り関係ないが、水中めがねは蓬の葉っぱで拭いておくと曇らない、擦りむいたり、ちょっとした切り傷をした場合、蓬の葉の汁を付けると良い。とか言うことを色々教えてもらった。父は口数は、そう多い方では無く、ときたま、ぼそっと物を云うタイプの人間であったと思う。
僕は父が四十三才の時、第二次大戦の末期のどさくさにまぎれて出来た子供で、年行ってから生まれた子供は、父にとっては、可愛い子供であったものであろう。釣りの仕掛け以外に、縄の縒り方、独楽への紐の巻き方、鋸、カンナの使い方、ナイフの研ぎ方、等々色々教えてもらった。今も、割合と器用なのは、この辺から来ているのかも知れない。
この当時、父は中小企業をあいてに、経理士の仕事をしており、余り稼ぎは良くなかった様に思われ、母の尻の下に敷かれていたようで、自分が、釣りに行きたくなると、「正蔵、今度の休みは、父さんと一緒に、釣りに行きたいと母さんに言え」と、僕を出汁にして、釣りに出掛けたものである。
そんなある日、(昭和三十一年頃の春)酒匂川の支流に、蓮華の花畑、菜の花畑の小道をぬって釣りに行ったことがあった。父は、その小さな川で、すぐにハヤを一匹釣り、更に、ふたつみっつは釣れていた。その後、その場所で、アタリも無くなったので、少し離れた所へ移動し、釣りを始めたところ、すぐにアタリがあり、突然、僕の浮きが消し込まれ、合わせてみると、今までに経験したことの無い、強い当たり! 竿は弓なりになり、下流にどんどん引き込まれ、「父さん、大変だ!大変だ!」と右往左往するうち、とうとう、竿と糸との結び目で、糸を切られてしまった。悔しい悔しかった。
父に、すぐ仕掛けを、付け替えてもらい、同じ所にもう一度振込み、そして流す。その途端、またまた、同じ大きな当たりに引き込まれる。「父さん、まただ!まただ!」大騒ぎ。これも、さっきと同じく、竿と糸との結び目で糸を切られてしまった。
・・・「父さんの糸の結び方が悪いから、切られてしまったではないか!」と父に向かって悪態をついた。父は一言「ゴメン」といったきりであった。魚は、何かわからなったが、多分ウグイの大きな奴か何かだと思う。父は「きっと鯉だ」と云っていたが。
夏が過ぎて、秋の風が吹き始める頃になると、父と一緒に、良くハゼ釣りに出掛けた。家は東京都品川区大井山中町にあり、大井海岸、大森海岸、平和島には近く、自転車で十分か十五分ぐらいで行くことができた。又、羽田(多摩川の下流、六郷)にも、そんなに、時間がかからずに、行けた。平和島の少し沖に中ノ島という、小さな島があった。この頃、この島はハゼ釣りでは有名な釣り場で、平和島から渡し船が出ており、良く、釣りに、でかけたものである。中学の時、此処で釣り大会が、行われたりして、こういう行事に、父と参加したりした。ここで、ハゼは、潮の動いている時に、良く釣れ、潮が止まるとアタリも止まる、というようなことを教えてもらった。竿は、父から貰った、海用の一間半の竹竿に、アルミニウム製のリ-ルを取り付けて使用した。(確か、オリンピックリ-ルだったと思う)ハゼはかなり釣れた。これも、母がテンプラにして、家族で食べた。又、友達と大井競馬場の裏に、競馬場への入場料三十円払って入り、釣りをしたものである。
大森海岸にも良く行ったものであるが、当時は、まだ海もきれいで、あの有名な、浅草海苔も生産されていた。その後、開発や埋め立てで、海は汚れ放題汚れ、魚達は、何処かに、追いやられ、比較的、汚れた場所に生息する、ゴカイさえも、居なくなってしまった。 戦後の、目を見張る様な驚愕的な復興、経済力の成長、生活の便利さ、科学の発達、等々と引換えに、我々は大切はものを失ってしまった。大切なものを取り上げられてしまった様である。
家の近くには、戸越公園と言う公園があり、この公園の中に池があり、ここに近所の子供たちと連れ立って、ザリガニを釣りに行ったり、大森駅の、裏の、大森貝塚の近くに、小さな流れで、ここでも、ザリガニが釣れたものであった。ザリガニは、スルメを、幅一センチ位に、切ったものをエサにし、これを、2~3メ-トルの長さの、たこ糸の先に縛りつけ、ザリガニの居そうな所へ投げ入れて、ザリガニが、ハサミでエサを、つかむのを待つ。奴が、エサをつかんだら、そ-っと糸を引いてきて、手網で捕ってしまう。奴は欲が深いのか、神経が鈍いのか、一回掴んだら決してエサを放そうとはしない。釣りには違いないが、遊び半分の、のんびりした、時であった。
又、鹿島神社と言う神社が近くにあり、毎年秋になると、お祭りで夜店等が出て楽しかった思い出があるが、この神社の近くに、用水池があり、ここでは、クチボソなどが釣れた。この様な、用水池は当時、家の近くに、何カ所かあり、こう言う所では、クチボソとか小ブナとかが、釣れたものである。しかし、次々と家が建ち、森や林が削られ、道路が造られ、すっかり変わってしまった。
その後、中学、高校、大学を過ごし、社会に出てから二十数年、その間に、煙草の味を覚え、酒の味を知るようになり、心の中や、脳味噌の中に、蜘蛛の巣が張る様に、大人の精神が入り込み、世の中の、どろどろした、色々な出来事の実態を知り、歳を経て、色々な知識を得、その分、子供や少年の持つ純な、考えや、心が、だんだん失われて行く中でも、この時の素晴らしかった情景や父の姿は決して忘れることは無いであろう。 この頃の事を思い出すたびに心が洗われる。時よ戻れといくら叫んでも、時は帰らない! 夢の中でタイムスリップするしか無さそうである。唄の文句じゃないけど、「呼び戻すことが出来るなら、僕は、何を惜しむだろう」と言う、心境である。
中学一年の初秋(昭和33年頃)、場所は良く憶えていないが、千葉県の海へ、矢立てという、(そう言ったと思う)一種の漁に、つれて行ってもらった。矢立てというのは、満潮時に30メ-トル四方くらいの網をセットし、干潮時に取り残された魚や蟹をヤスで突いたり、タモですくったりして取ると云う漁法で当時、千葉の海では、しばしば行われていたらしい。僕はいい気になって、ヤスで魚や蟹をついていたが、その内、足元に大きな蟹を見つけ、あわてて突いたは良いが、自分の右足の親指を突いてしまった。血がどんどんでるわ、親指の爪は割れてしまうわ、かなりの怪我だった。父の所へあわてて飛んでいったが、「海の怪我は化膿することないから、大丈夫、大丈夫!」と云って、結局、赤チンを塗って、ホ-タイを、ぐるりとまいただけで、治療を済ませてしまった。今だったら、それっ、救急車などと、大騒ぎになると思うが、当時は、何処でもこんなものであった。僕自信も痛さなど忘れて、ホ-タイを巻いたままで魚取りを続けた。この時には、父に随分と甘えたものである。
矢立てで取れた、大きな蟹を具に、味噌汁が大きな鍋で作られ、鍋を囲んで大勢で食べた。あったかくて、うまかったな。父は、仕事の仲間と、一緒に酒など飲んで、赤い顔をしながらタバコを吸っていたっけ。当時、「ひかり」という、橙色のパッケ-ジに入った、タバコを吸っていた、と憶えている。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その2
第二章 「父と少年の釣り」
鶴見川でのハゼ釣り以降、釣りと云うものが好きになり、小学校から中学校にかけては、従兄弟ちゃんと二人で鶴見の三つ池、二つ池、鶴見川の上流で釣りを楽しんだが、余り釣れたことはなかった。三つ池でダボハゼが、二つ池でクチボソが、釣れた程度であった。但、近くのどぶ川で、糸みみずや縞みみずを取ったり、ダボハゼを釣ってきて、これを焼いて猫に食べさせたりしたり、釣りの代わりにざりがにを捕ってみたり、池や川の斜面で寝そべってみたり、釣り以外にも楽しいことが多くあった。
鶴見川の上流も、当時はまだまだきれいで、川の近くは田んぼばかりで、野の草も、景色も、とても清々しいものであった。川では、ミミズをエサに棒浮きを使って、流し釣りをしたがほとんどゼロと云って良い程、釣果はなかった。川の流れの上を浮きが流れて行く情景が、今でも克明に、瞼の裏に残っている。竿は3本繋ぎの竹竿を、確か三十円か五十円かで、従兄弟ちゃんと二人で、近くの駄菓子屋さんみたいな所で買い込み、大事な宝物として持っていた。正月のお年玉が百円位の時代であったから、当時の子供としては高い買い物であったに違いない。
父は、釣り道具に関しては、非常な凝り性で、戦前に東作などに注文して作らせた高級な竹竿を沢山持っていて、大事に保管してあった。幸い、空襲で焼ける事もなく、今では父の形見として、僕が持っている。主として渓流竿が多い。
父には、良く酒匂川(小田原)にヤマベ釣りに連れて行ってもらった。田んぼには、蓮華の花がいっぱいで、菜の花も咲き乱れている頃、連れて行ってもらったものである。玉浮きを付けた流し釣りで、エサはサシ。釣りの行く前の夜、テグスを湿らせて、引っ張っては強さを確かめ、又、引っ張っては強さを確かめ、何本かつないで、道糸をつくっていた。当時、まだナイロン糸は、出回っていなかったのであろうか。小さなハサミで、切ってはつなぎ、切ってはつなぎしているのを、側でじ-っとみていたものである。糸の結び方、釣り針への結び方、浮きの付け方等、教えてもらったが、子供の僕にとってはとても難しく、なかなか覚えきれなかった。でも、父と二人で黙々と仕掛けを作るのは実に楽しかった。
この時、父は、僕に釣り竿を、僕専用に、「だいじに使うのだよ」と渓流竿一本(二間半の竹竿)と、海小物用の、竿一本(一間半の竹竿)の二本くれた。うれしかったな! いまでも、この渓流竿は大切に保管してある。海用の竿は、長いこと使っている内に先端が折れてしまったので、そのままどこかへいってしまった。釣った魚は蓬の葉っぱといっしょに、魚籠に入れて置くと長持ちする、と教えてくれたのも父。笹の葉と一緒でも良い。釣りとは余り関係ないが、水中めがねは蓬の葉っぱで拭いておくと曇らない、擦りむいたり、ちょっとした切り傷をした場合、蓬の葉の汁を付けると良い。とか言うことを色々教えてもらった。父は口数は、そう多い方では無く、ときたま、ぼそっと物を云うタイプの人間であったと思う。
僕は父が四十三才の時、第二次大戦の末期のどさくさにまぎれて出来た子供で、年行ってから生まれた子供は、父にとっては、可愛い子供であったものであろう。釣りの仕掛け以外に、縄の縒り方、独楽への紐の巻き方、鋸、カンナの使い方、ナイフの研ぎ方、等々色々教えてもらった。今も、割合と器用なのは、この辺から来ているのかも知れない。
この当時、父は中小企業をあいてに、経理士の仕事をしており、余り稼ぎは良くなかった様に思われ、母の尻の下に敷かれていたようで、自分が、釣りに行きたくなると、「正蔵、今度の休みは、父さんと一緒に、釣りに行きたいと母さんに言え」と、僕を出汁にして、釣りに出掛けたものである。
そんなある日、(昭和三十一年頃の春)酒匂川の支流に、蓮華の花畑、菜の花畑の小道をぬって釣りに行ったことがあった。父は、その小さな川で、すぐにハヤを一匹釣り、更に、ふたつみっつは釣れていた。その後、その場所で、アタリも無くなったので、少し離れた所へ移動し、釣りを始めたところ、すぐにアタリがあり、突然、僕の浮きが消し込まれ、合わせてみると、今までに経験したことの無い、強い当たり! 竿は弓なりになり、下流にどんどん引き込まれ、「父さん、大変だ!大変だ!」と右往左往するうち、とうとう、竿と糸との結び目で、糸を切られてしまった。悔しい悔しかった。
父に、すぐ仕掛けを、付け替えてもらい、同じ所にもう一度振込み、そして流す。その途端、またまた、同じ大きな当たりに引き込まれる。「父さん、まただ!まただ!」大騒ぎ。これも、さっきと同じく、竿と糸との結び目で糸を切られてしまった。
・・・「父さんの糸の結び方が悪いから、切られてしまったではないか!」と父に向かって悪態をついた。父は一言「ゴメン」といったきりであった。魚は、何かわからなったが、多分ウグイの大きな奴か何かだと思う。父は「きっと鯉だ」と云っていたが。
夏が過ぎて、秋の風が吹き始める頃になると、父と一緒に、良くハゼ釣りに出掛けた。家は東京都品川区大井山中町にあり、大井海岸、大森海岸、平和島には近く、自転車で十分か十五分ぐらいで行くことができた。又、羽田(多摩川の下流、六郷)にも、そんなに、時間がかからずに、行けた。平和島の少し沖に中ノ島という、小さな島があった。この頃、この島はハゼ釣りでは有名な釣り場で、平和島から渡し船が出ており、良く、釣りに、でかけたものである。中学の時、此処で釣り大会が、行われたりして、こういう行事に、父と参加したりした。ここで、ハゼは、潮の動いている時に、良く釣れ、潮が止まるとアタリも止まる、というようなことを教えてもらった。竿は、父から貰った、海用の一間半の竹竿に、アルミニウム製のリ-ルを取り付けて使用した。(確か、オリンピックリ-ルだったと思う)ハゼはかなり釣れた。これも、母がテンプラにして、家族で食べた。又、友達と大井競馬場の裏に、競馬場への入場料三十円払って入り、釣りをしたものである。
大森海岸にも良く行ったものであるが、当時は、まだ海もきれいで、あの有名な、浅草海苔も生産されていた。その後、開発や埋め立てで、海は汚れ放題汚れ、魚達は、何処かに、追いやられ、比較的、汚れた場所に生息する、ゴカイさえも、居なくなってしまった。 戦後の、目を見張る様な驚愕的な復興、経済力の成長、生活の便利さ、科学の発達、等々と引換えに、我々は大切はものを失ってしまった。大切なものを取り上げられてしまった様である。
家の近くには、戸越公園と言う公園があり、この公園の中に池があり、ここに近所の子供たちと連れ立って、ザリガニを釣りに行ったり、大森駅の、裏の、大森貝塚の近くに、小さな流れで、ここでも、ザリガニが釣れたものであった。ザリガニは、スルメを、幅一センチ位に、切ったものをエサにし、これを、2~3メ-トルの長さの、たこ糸の先に縛りつけ、ザリガニの居そうな所へ投げ入れて、ザリガニが、ハサミでエサを、つかむのを待つ。奴が、エサをつかんだら、そ-っと糸を引いてきて、手網で捕ってしまう。奴は欲が深いのか、神経が鈍いのか、一回掴んだら決してエサを放そうとはしない。釣りには違いないが、遊び半分の、のんびりした、時であった。
又、鹿島神社と言う神社が近くにあり、毎年秋になると、お祭りで夜店等が出て楽しかった思い出があるが、この神社の近くに、用水池があり、ここでは、クチボソなどが釣れた。この様な、用水池は当時、家の近くに、何カ所かあり、こう言う所では、クチボソとか小ブナとかが、釣れたものである。しかし、次々と家が建ち、森や林が削られ、道路が造られ、すっかり変わってしまった。
その後、中学、高校、大学を過ごし、社会に出てから二十数年、その間に、煙草の味を覚え、酒の味を知るようになり、心の中や、脳味噌の中に、蜘蛛の巣が張る様に、大人の精神が入り込み、世の中の、どろどろした、色々な出来事の実態を知り、歳を経て、色々な知識を得、その分、子供や少年の持つ純な、考えや、心が、だんだん失われて行く中でも、この時の素晴らしかった情景や父の姿は決して忘れることは無いであろう。 この頃の事を思い出すたびに心が洗われる。時よ戻れといくら叫んでも、時は帰らない! 夢の中でタイムスリップするしか無さそうである。唄の文句じゃないけど、「呼び戻すことが出来るなら、僕は、何を惜しむだろう」と言う、心境である。
中学一年の初秋(昭和33年頃)、場所は良く憶えていないが、千葉県の海へ、矢立てという、(そう言ったと思う)一種の漁に、つれて行ってもらった。矢立てというのは、満潮時に30メ-トル四方くらいの網をセットし、干潮時に取り残された魚や蟹をヤスで突いたり、タモですくったりして取ると云う漁法で当時、千葉の海では、しばしば行われていたらしい。僕はいい気になって、ヤスで魚や蟹をついていたが、その内、足元に大きな蟹を見つけ、あわてて突いたは良いが、自分の右足の親指を突いてしまった。血がどんどんでるわ、親指の爪は割れてしまうわ、かなりの怪我だった。父の所へあわてて飛んでいったが、「海の怪我は化膿することないから、大丈夫、大丈夫!」と云って、結局、赤チンを塗って、ホ-タイを、ぐるりとまいただけで、治療を済ませてしまった。今だったら、それっ、救急車などと、大騒ぎになると思うが、当時は、何処でもこんなものであった。僕自信も痛さなど忘れて、ホ-タイを巻いたままで魚取りを続けた。この時には、父に随分と甘えたものである。
矢立てで取れた、大きな蟹を具に、味噌汁が大きな鍋で作られ、鍋を囲んで大勢で食べた。あったかくて、うまかったな。父は、仕事の仲間と、一緒に酒など飲んで、赤い顔をしながらタバコを吸っていたっけ。当時、「ひかり」という、橙色のパッケ-ジに入った、タバコを吸っていた、と憶えている。
〔山男魚〕
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2000年01月02日
山男魚 「鶴見川からモントレ-へ 1」
95/10/10 21:57
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その1
第一章 「始めての釣り」
釣りを始めてやったのは、昭和30年頃 (当時10才) の秋であろうか。鶴見川にボ-トを浮かべてハゼ釣りをしたのが、最初だと思う。父、叔父、伯父、従兄弟と僕の五人であった、と記憶している。川の上には多くの人々が、ボ-トを浮かべハゼ釣りをしており、次から次へと釣れていた様である。僕等も早速手漕ぎのボ-トを借りてに乗り込み、前の日に作ってもらった仕掛けを用い、手取り足取り教えてもらった釣り方で釣りはじめる。釣り始めてすぐに従兄弟ちゃんにアタリがあり、良い型のハゼをつり上げる。叔父連にも当たりが次から次にあり、どんどんつり上げる。ところが僕には全然釣れない。どうなっているんだろう。
そもそもハゼという魚は、海底にいるゴカイとか、その他のエサを食っている種の魚、すなわち、海底の砂底近くに居る魚なので、エサのゴカイが砂底についていないと、どう足掻いても釣れない訳である。始め、僕は、そんなことは知らず、エサを中層に流していたため全然釣れず、浮かない顔をしていると、確か、叔父だと思うが、
「おい、それじゃ釣れないよ、ハゼは底にいるから浮き下をもっと長くしてエサが底に付く様にしなくてはだめだ、貸してごらん、これぐらいの浮き下なら釣れるはずだから」
と云って浮き下を調整してくれた。それ以降、次から次へと釣れる様になり、ビリビリ、ブルブルと痺れる様なアタリに夢中になり、感動し、浮かない顔も何処へやら、笑いと、喜びが、身体中に広がり、釣りとはこんなに楽しいものと感激。結局、皆でバケツ2杯ぐらい釣りまくった。
途中、エサのゴカイが無くなってしまったため、川べりのエサ屋に買いに行った。しかし、店の人はどこかへ出掛けてしまったのか、誰も居らず、叔父が店の人を演じ、伯父が客を演じ、
「すいません、エサを下さい」
「はい、どうぞ、今日はタダです、どうぞ好きなだけ持って行って下さい。」
等の会話がなされ、タダでエサを手に入れたのを、憶えている。又、近くのボ-トでは「アァ!セイゴが釣れた」等と騒いでいる子供がいたり、親子でのんびりと糸を垂れている人々がいたり、今から考えて見ると穏やかでのんびりした時であったと思う。素晴らしい一時であった。
この様な、環境や、時が戻ってこないのかと思うと悲しい。カムバック(Come Back) 鶴見川!鶴見川は今では、日本で五番目に汚い川になってしまった。こんなことってあるだろうか情けないやら、悲しいやら、今でも、鶴見川を愛している人は大勢いると思う。
ハゼは鶴見の家(叔父宅)へ持って帰り、叔母、母、もうひとりの叔母のが料理しテンプラにして食べた。味は良く憶えていないが、さぞうまかった、であろうと推測する。
〔山男魚〕
「鶴見川からモントレ-へ」 釣りによって出会った情景と人々 その1
第一章 「始めての釣り」
釣りを始めてやったのは、昭和30年頃 (当時10才) の秋であろうか。鶴見川にボ-トを浮かべてハゼ釣りをしたのが、最初だと思う。父、叔父、伯父、従兄弟と僕の五人であった、と記憶している。川の上には多くの人々が、ボ-トを浮かべハゼ釣りをしており、次から次へと釣れていた様である。僕等も早速手漕ぎのボ-トを借りてに乗り込み、前の日に作ってもらった仕掛けを用い、手取り足取り教えてもらった釣り方で釣りはじめる。釣り始めてすぐに従兄弟ちゃんにアタリがあり、良い型のハゼをつり上げる。叔父連にも当たりが次から次にあり、どんどんつり上げる。ところが僕には全然釣れない。どうなっているんだろう。
そもそもハゼという魚は、海底にいるゴカイとか、その他のエサを食っている種の魚、すなわち、海底の砂底近くに居る魚なので、エサのゴカイが砂底についていないと、どう足掻いても釣れない訳である。始め、僕は、そんなことは知らず、エサを中層に流していたため全然釣れず、浮かない顔をしていると、確か、叔父だと思うが、
「おい、それじゃ釣れないよ、ハゼは底にいるから浮き下をもっと長くしてエサが底に付く様にしなくてはだめだ、貸してごらん、これぐらいの浮き下なら釣れるはずだから」
と云って浮き下を調整してくれた。それ以降、次から次へと釣れる様になり、ビリビリ、ブルブルと痺れる様なアタリに夢中になり、感動し、浮かない顔も何処へやら、笑いと、喜びが、身体中に広がり、釣りとはこんなに楽しいものと感激。結局、皆でバケツ2杯ぐらい釣りまくった。
途中、エサのゴカイが無くなってしまったため、川べりのエサ屋に買いに行った。しかし、店の人はどこかへ出掛けてしまったのか、誰も居らず、叔父が店の人を演じ、伯父が客を演じ、
「すいません、エサを下さい」
「はい、どうぞ、今日はタダです、どうぞ好きなだけ持って行って下さい。」
等の会話がなされ、タダでエサを手に入れたのを、憶えている。又、近くのボ-トでは「アァ!セイゴが釣れた」等と騒いでいる子供がいたり、親子でのんびりと糸を垂れている人々がいたり、今から考えて見ると穏やかでのんびりした時であったと思う。素晴らしい一時であった。
この様な、環境や、時が戻ってこないのかと思うと悲しい。カムバック(Come Back) 鶴見川!鶴見川は今では、日本で五番目に汚い川になってしまった。こんなことってあるだろうか情けないやら、悲しいやら、今でも、鶴見川を愛している人は大勢いると思う。
ハゼは鶴見の家(叔父宅)へ持って帰り、叔母、母、もうひとりの叔母のが料理しテンプラにして食べた。味は良く憶えていないが、さぞうまかった、であろうと推測する。
〔山男魚〕
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20:29
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2000年01月01日
杉浦清石 怪談・うなぎ釣り
95/07/22 16:14
これ実話なのです。 短編ですのでゆっくり読んでね。
ウナギはその細長い形のわりには良くファイトしてくれる魚です。 そして住んでいるところも潮入りの川から池沼、条件によっては滝を上って源流でも見られることもあります。
ウナギの登れる滝は流れの多寡によるよりも周辺の傾斜度に影響され、斜面の緩い所ならかなり上まで上るのです。 滝登りではなく濡れている岩のロッククライミングと云ったほうがよいで しょう。
但し海に近いところの川やそれに流れ込む小沢でのことです。 直立する堰堤は登れませんので最近は見られなくなりました。
私のウナギの思い出と言えば静岡の安倍川でカジカなどを突きにいったときに川底を素早く走るウナギ。 同じ静岡で市内にあるコンクリートの用水で都会の下水道と違ってかなり急に流れる水の綺麗な中に「ボッタイアミ」という三角型のアミを入れて捕った「メッセン」(メソッコのことか)ウナギ。
相模川の蛇籠の穴に餌を入れて釣る穴釣り。 おなじ穴釣りでも葛西水郷の穴釣りは泥と砂の浅い細流の底に見える、ザリガニでも棲みそうな穴に餌を落としこむ釣りもあります。
私の記録は自慢出来るほどのものではありませんが、深川の木場のイカダに乗って釣った大鰻と利根川の豊里での48尾の数釣りでしょう。 数珠ゴ釣り という釣り方もあります。
これは銅線の様な柔らかい針金か凧糸に畳針でゴカイやミミズの頭部を何匹も串刺にして房を作ります。 それに紐を付けて川の底まで下ろす。 鰻が房になった餌の中に頭を突っ込み食べているのをソゥと上げてタモで掬う夜の漁です。
鰻釣りの最高の餌は生のアユでぶつ切りにしてハリに付けます。 アユの無いときはサンマでもサバでも鰯でも餌になりました。
鰻の生殖行動は河原の浅瀬に群をなしてグリグル廻りながら行うと長老から聞きました。 フォークダンスで嫁選びなんて洒落ているでしょ。
今日は千葉県の小櫃(オビツ)川のウナギの夜釣りの話をしましょう。 小櫃川というのは内房の木更津市の入り口で、将来東京湾横断道路の取り付け口になるところにあり、東京湾に流れ込む川です。
現在16号線は此の手前でバイパスして行きますが、旧道は今も小櫃橋を渡って木更津市内に向かっています。 この橋から海までは目と鼻の先で海岸に出ればハゼも釣れますし引き潮ならアサリもとれます。
ハゼを釣りに行った時夕方になって河口近くの川で、投げ釣りの竿に鰻がかかったのをヒントにウナギの夜釣りを思いつきました。 仕事が終わってからバイクをとばし小櫃橋手前の堤を海に向かい、適当バイクを止めます。
明るいうちは海に向かって投げ釣りです。 ハゼ・セイゴ等が釣れました。 汐が止まって周囲が暗くなると釣り場を川に移します。゛このあたりは草の茂る沼地のような地盤が柔らかいところで、海の汐の匂いと泥の匂いが入り交じって異様な香りがします。
それでも流れの近くでは砂地になっていて川風も吹き、涼しくて夜釣りの醍醐味満点。 おもちゃの様な短い投げ竿に餌を付け投げ込めば、後は果報は寝て待て。 竿先にはクリップで鈴を止めてあるので喰えば鳴って知らせてくれます。
茣蓙(ゴザ)を一枚敷いてひっくり返って星の数を数える。 時間と共に星は増えてゆきます。 チリチリチリ鈴が鳴ってウナギが釣れる。 大きいのは釣れませんが、3~40cmあたりのが釣れました。
ハリスに尻尾を巻き付けて絡むので、バケツに水を少し入れハリスを切るととれます。 ハリスは元を乳輪にしたものを用意してあるのでスナップで簡単に付けられます。 五尾も釣れるとアタリが遠のく。
木更津方向が火事のように明るく燃えていますが、海の向こうの久里浜方向は満天の星。 いつしかトロリとまどろんで………。
夢の中の暗闇で、お遍路さんの鈴の音が、かすかにチン、チリリン。 暫くして遠くの方でチン、チリリン。 今度は近くでチン、チリリン。 どこから吹くのか生温かい風がフーッ。
風が生臭くなって頭の上でチン、チリリン。 目は覚めているのですが起きられない。 何か重いものが顔の上にのしかかってくる感じ。
そおっと目を開いたが空が無い。 小さな声で「誰れ」と言ってみました。 目の前の物が無くなって空の星が目に飛び込んで来ます。 芝居の緞帳(ドンチョ ウ)が開くように。
そしてチリン、チリリン。 鈴の音が離れます。 今度は起きあがって、あたりを透かすように眺めると大きな物体がゆっくりと離れて行きました。 その物体一つや二つではありません。
遠くでチリン。 近くでチリン静かに静かに動きます。 そして「もーーぅ」 牛でした。 夜になると放牧するらしい。 カウベルがチリン、チリリン。
~清 石ー≧゜、~<
これ実話なのです。 短編ですのでゆっくり読んでね。
ウナギはその細長い形のわりには良くファイトしてくれる魚です。 そして住んでいるところも潮入りの川から池沼、条件によっては滝を上って源流でも見られることもあります。
ウナギの登れる滝は流れの多寡によるよりも周辺の傾斜度に影響され、斜面の緩い所ならかなり上まで上るのです。 滝登りではなく濡れている岩のロッククライミングと云ったほうがよいで しょう。
但し海に近いところの川やそれに流れ込む小沢でのことです。 直立する堰堤は登れませんので最近は見られなくなりました。
私のウナギの思い出と言えば静岡の安倍川でカジカなどを突きにいったときに川底を素早く走るウナギ。 同じ静岡で市内にあるコンクリートの用水で都会の下水道と違ってかなり急に流れる水の綺麗な中に「ボッタイアミ」という三角型のアミを入れて捕った「メッセン」(メソッコのことか)ウナギ。
相模川の蛇籠の穴に餌を入れて釣る穴釣り。 おなじ穴釣りでも葛西水郷の穴釣りは泥と砂の浅い細流の底に見える、ザリガニでも棲みそうな穴に餌を落としこむ釣りもあります。
私の記録は自慢出来るほどのものではありませんが、深川の木場のイカダに乗って釣った大鰻と利根川の豊里での48尾の数釣りでしょう。 数珠ゴ釣り という釣り方もあります。
これは銅線の様な柔らかい針金か凧糸に畳針でゴカイやミミズの頭部を何匹も串刺にして房を作ります。 それに紐を付けて川の底まで下ろす。 鰻が房になった餌の中に頭を突っ込み食べているのをソゥと上げてタモで掬う夜の漁です。
鰻釣りの最高の餌は生のアユでぶつ切りにしてハリに付けます。 アユの無いときはサンマでもサバでも鰯でも餌になりました。
鰻の生殖行動は河原の浅瀬に群をなしてグリグル廻りながら行うと長老から聞きました。 フォークダンスで嫁選びなんて洒落ているでしょ。
今日は千葉県の小櫃(オビツ)川のウナギの夜釣りの話をしましょう。 小櫃川というのは内房の木更津市の入り口で、将来東京湾横断道路の取り付け口になるところにあり、東京湾に流れ込む川です。
現在16号線は此の手前でバイパスして行きますが、旧道は今も小櫃橋を渡って木更津市内に向かっています。 この橋から海までは目と鼻の先で海岸に出ればハゼも釣れますし引き潮ならアサリもとれます。
ハゼを釣りに行った時夕方になって河口近くの川で、投げ釣りの竿に鰻がかかったのをヒントにウナギの夜釣りを思いつきました。 仕事が終わってからバイクをとばし小櫃橋手前の堤を海に向かい、適当バイクを止めます。
明るいうちは海に向かって投げ釣りです。 ハゼ・セイゴ等が釣れました。 汐が止まって周囲が暗くなると釣り場を川に移します。゛このあたりは草の茂る沼地のような地盤が柔らかいところで、海の汐の匂いと泥の匂いが入り交じって異様な香りがします。
それでも流れの近くでは砂地になっていて川風も吹き、涼しくて夜釣りの醍醐味満点。 おもちゃの様な短い投げ竿に餌を付け投げ込めば、後は果報は寝て待て。 竿先にはクリップで鈴を止めてあるので喰えば鳴って知らせてくれます。
茣蓙(ゴザ)を一枚敷いてひっくり返って星の数を数える。 時間と共に星は増えてゆきます。 チリチリチリ鈴が鳴ってウナギが釣れる。 大きいのは釣れませんが、3~40cmあたりのが釣れました。
ハリスに尻尾を巻き付けて絡むので、バケツに水を少し入れハリスを切るととれます。 ハリスは元を乳輪にしたものを用意してあるのでスナップで簡単に付けられます。 五尾も釣れるとアタリが遠のく。
木更津方向が火事のように明るく燃えていますが、海の向こうの久里浜方向は満天の星。 いつしかトロリとまどろんで………。
夢の中の暗闇で、お遍路さんの鈴の音が、かすかにチン、チリリン。 暫くして遠くの方でチン、チリリン。 今度は近くでチン、チリリン。 どこから吹くのか生温かい風がフーッ。
風が生臭くなって頭の上でチン、チリリン。 目は覚めているのですが起きられない。 何か重いものが顔の上にのしかかってくる感じ。
そおっと目を開いたが空が無い。 小さな声で「誰れ」と言ってみました。 目の前の物が無くなって空の星が目に飛び込んで来ます。 芝居の緞帳(ドンチョ ウ)が開くように。
そしてチリン、チリリン。 鈴の音が離れます。 今度は起きあがって、あたりを透かすように眺めると大きな物体がゆっくりと離れて行きました。 その物体一つや二つではありません。
遠くでチリン。 近くでチリン静かに静かに動きます。 そして「もーーぅ」 牛でした。 夜になると放牧するらしい。 カウベルがチリン、チリリン。
~清 石ー≧゜、~<
Posted by nakano3 at
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